温かな心通い合うキリスト教会が心の癒しを提供

埼玉県日高市 日本長老教会 高麗川キリスト教教会

温かな心通い合うキリスト教会が心の癒しを提供 

 

 

 

選ばれ召されて

 

ローマ人への手紙一章一節

 

神の福音のために

 

福音

 

戦いの勝利

 

 私たちは四年に一度オリンピックという世界的な、しかも全種目的な競技会があるのを知っています。そのオリンピックの中でも中心的な競技にマラソンがあります。マラソンというのはギリシャとペルシャが戦ったときに、ギリシャが勝利を収めました。そのギリシャの勝利を伝えるために、一人の兵士がマラトンという町からアテネまで走ったということに因んで始められた競技です。この時の勝利の知らせが福音、ユアンゲリオンというものなのです。

 

良き知らせ

 

 ですから戦いの勝利を表すのが福音であり、それは人々にとって良い知らせでありました。で、この良い知らせのことを福音として人々は用いるようになったのです。今は何かに悩む人に解決を与える知らせというような意味で、良く用いられるようになりました。たとえば、「肥満の人に効果があります。肥満の方への福音、このドリンク」等というような用いられ方が良くなされます。

 

神の福音

 

神様の福音とは

 

 ここで福音と言うことが分ったところで、神様の福音について考えてみましょう。神様の福音も、勝利の知らせであるという観点からしますと、悪魔との戦いに勝利を収めた報せであるということが言えます。イエス様がその後生涯の最後において、悪魔との戦いに勝利を収めたのです。それは何よりも私たちには決して解決することができなかった死からの勝利と言うことができるでしょう。\x{fffd}Tコリント一五章五四節

 

福音にあずかること

 

 そして私たちはただこの勝利の知らせを聞くだけではなく、この福音にあずかることが出来るのです。福音にあずかると言うことは、私たちがイエス様の十字架の死を私たちの罪の身代わりの死と信じて、主に従っていくことです。ですから私たちはこの福音を心から信じているということが必要なのです。

 

神の福音のために

 

良き知らせを伝えること

 

この福音については二節以降でパウロはさらに語っていますので、そこで改めて学ぶこととして、パウロは「神の福音のために選び分けられ」と語っています。それはどのようなことなのでしょうか。あのギリシャの戦死はマラトンからアテネまで、四〇キロもの道程を走り続けたように、彼もイエス様の福音を伝えることを自分の使命としたということです。

 

彼は福音を伝えることを願い

 

 彼は何とか福音を伝えたいという強い意志を持っていると言うことが分りますし、実際の行動も、彼のその願いを裏付けています。彼は「弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。」(\x{fffd}Tコリント九章二二節)と語っていますし、この箇所の直後でも、ローマに何とかしていきたいとも語っています。(一章一〇節)彼にとってこの福音はほんとうに大きな価値のあるものだったのです。

 

選ばれ

 

選ばれ

 

私たちは選ばれた者

 

 ここでは今も見たようにパウロは選ばれたものであることを語ります。そしてこの選ばれたものという意味では私たちも選ばれたものであるということが言えるのです。この言葉は「分離する、引き離す、聖別する」というような意味です。私たちはこの世の人々とは区別され、引き離され、そして聖別されていると言うことです。キリスト教は人間を差別する宗教であるという批判をされることがあります。一面で私たちはその批判が当たっていることを認めることが必要です。確かに聖書のメッセージは信徒と信徒でないものを区別しているのです。

 

ほんとうに選ばれた者?

 

 しかし私たちはほんとうに選ばれたものなのでしょうか。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネの福音書一五章一六節)と語られているのです。ですから私たちが選ばれていることは事実です。

 

選ばれた者として

 

選ばれた者にふさわしく

 

 この選ばれたものと言うことが私たちの生き方の中でその根底にあるものである、あるいは根底になっていくということが必要なことです。私たちはまだキリストを信じていない人とどこが違うのでしょうか。なかなかその違いが分らないという人がいるかもしれません。私たちはこの選ばれたものであるということを知っているという意味で、根本的な違いがあるのです。

 

新年礼拝でのメッセージ

 

 私たちはこの年の新年礼拝において、「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者としてあなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」というコロサイ人への手紙三章のメッセージを神様から与えられました。私たちは事実として、また私たちの自己評価や、他人の評価とは全く関わりなく、神様から事実として選ばれたものであるという事実を受け止めたいと思います。

 

選びの確認

 

選挙とは違う

 

 私たちは選ぶと言うときにどのようなものを思い浮かべるのでしょうか。選ぶと言うことの文字を考えると、すぐに選挙というような文字が浮かんできたり、そうしたことを考えるかも知れません。選挙は、私たちが誰かを選ぶし、その時には政策だの、政党だの、いろいろな条件を選ぶための基準として考えることでしょう。しかし、ここでの選びは、全く違って、私たちが選ばれたのであり、その時に少なくとも何かの条件によって選ばれたのではないと言うことでしょう。

 

神様の恵み

 

 それは神様の一方的な恵みであるということを意味しています。私たちに何の功績も、選ばれる理由も自分の内に見出せないとするならば、それは神様の恵み以外に何も理由がないといえるでしょう。私たちはその様な意味ではいつでも神様の愛の対象であるのです。新年礼拝において私は次のように語っています。「ですから私たちはこの神様の恵みを素直に認めることをしなければなりません。すなわち神様は私たちを価値あるものとしてくださっているのです。『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』(イザヤ書四三章四節)とある通りなのです。」

 

使徒として召され

 

使徒

 

使徒ということば

 

 次ぎにパウロは使徒であると自分について語っています。この使徒と言う言葉はアポストロスと言う言葉です。この言葉は古代では「遠征隊、艦隊」というような意味で用いられた言葉です。その後、「~全権を委ねられて遣わされたもの」、「全権大使」というような意味を持った言葉として用いられているのです。彼はイエス・キリスト様から遣わされているものとして活躍したのです。

 

他の使徒と違うパウロ

 

 彼は使徒と呼ばれる人々のなかで異色の存在でした。彼はイエス様の一二弟子の中には入っていません。彼は教会を迫害するものとして聖書に登場しています。彼は「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。」(\x{fffd}Tコリント一五章九節)と語ります。他の使徒と呼ばれる人々はユダヤ人を相手に伝道していきましたが、彼は異邦人を伝道の対称として選びました。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。」(使徒の働き九章一五節)と彼がキリストとの出会いを経験したときからその働きに召されていたのです。

 

使徒として召され

 

使徒としての自覚

 

 彼は使徒としての自覚を強く持っていた人です。彼はイエス様から選ばれましたので、すぐにみことばを宣べ伝えるようになっていったのです。その事について彼自身で「異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。」(ガラテヤ人への手紙一章一六、一七節)と彼はその時の経験を語っています。

 

いつでも自分を表し

 

 そして彼は個の自覚をいつでも他の人々にあかしました。彼の手紙を見てみますと、新約聖書の中に一三の手紙が載せられていますが、その中で使徒という言葉を用いて自分を紹介している手紙は一〇通に上ります。そして\x{fffd}Tテサロニケ、\x{fffd}Uテサロニケ、ピレモンへの手紙がパウロと名乗っていますが、使徒としての紹介をしていません。ピレモンへの手紙は個人宛の手紙という意味で当然かも知れません。テサロニケについてはその理由が良く分りませんが、パウロの伝道の極初期に書かれた手紙であるためかも知れません。いずれにしましても、彼は自分を使徒として公に表し、その自覚に基づいて行動していたのです。

 

召しの確認

 

召しは使命を感じること

 

最後に召しと言うことについて少し考えておきたいと思います。召しという言葉は「呼ばれる」という意味です。雇われているものは主人に呼ばれるとその呼び出しに応えて、与えられた仕事をやり抜きます。パウロの場合、キリスト様との出会いを経験して、神様に選ばれたものであることを知り、同時に神様からの召しをいただいて、使徒としての働きを始めているのです。選びを与えられたものはそれぞれが何か具体的に仕事を与えられるのでしょう。

 

大きな仕事でなくても

 

 この召しというのはパウロのように使徒というような大きな仕事ではなくても、神様のために役に立つと思える仕事をなしていくと言うことが大切になります。御言葉を宣べ伝えることも大切ならば、会堂を掃除すること、月報の発送、主のためになるということならば何でも使命感をもってすることができれば、主の役に立つと言うことができるのです。

 

 

 

 

 

キリストの福音のため

 

ローマ人への手紙一章二~七節

 

預言者を通して約束された

 

預言者たちを通して

 

機械的ではない

 

二節を見ますと「――この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので」と語られています。神様は私たちに聖書という書物を通していろいろな約束をお与えくださいました。その聖書は預言者たちという人間を通して語られたものの記録であります。その人間を神様はロボットのように機械的にお用いになったのではなく、時代背景や、その人の個性などを含んでお語りになっているのです。この前まで学んでいたマルコにしても「するとすぐに」という言葉がしばしば用いられていますが、それが彼の個性であるということができるでしょう。

 

時代的な背景の中で

 

 また時代背景と言うことも忘れられないものであります。預言者の生きた時代、イザヤの時代と、エレミヤの時代、エゼキエルの時代はそれぞれ大きな差がありますから、その時代に即した神様からのメッセージが記されています。そうした時代背景に即した理解が必要ですし、同時に普遍的な、いつの時代にも通じる主のメッセージも汲み取っていかなければならないでしょうし、ある時代に語られたメッセージを現代に当てはめることもまた必要なことです。

 

聖書を通して

 

旧約聖書の中に示された

 

聖書を通してというとき、パウロの時代の聖書というのは私たちの時代と違って旧約聖書だけであります。そして旧約聖書の中にも福音が啓示されているのです。たとえばレビ記などには犠牲の供え物が示されていますが、それらはイエス・キリストの十字架による犠牲のひな型を示しているのです。また有名なイザヤ書五三章などは明らかにイエス様の姿を示しているのです。

 

新約聖書の中にある福音

 

 しかし私たちには新約聖書も与えられています。新約聖書にはどこにもイエス様の救いについての約束が記されているということができるでしょう。福音書を初めとし、どの書簡にもイエス・キリスト様とその贖いのみわざが記してあるといって良いほどです。ですから私たちはパウロの時代以上に聖書の中に福音を読むことができるのです。

 

約束

 

神様の契約(私たちの救いに関する契約)

 

 福音と言うことは私たちにとって神様の約束として示されています。すなわち神様の契約なのです。しかし契約というのは、普通は当事者間の双方が契約の責任を負うのですが、神様の契約の場合は、神様が私たちに対して一方的に責任を負うものとして結んでくださったものなのです。それは神様が私たちの罪を赦し、救いの中に入れてくださるという約束であります。

必ず実行される(保証)

 そしてこの約束は必ず実行されるものとして、すなわち保証を得ているものとして示されているのです。事実神様はイエス・キリスト様を十字架に架けることにより、また死者の中から復活させることにより、約束を実行してくださいました。そして救われる者に確かに救いをお与えくださることを、すなわち神様がお選びになった民を救ってくださる事により実行されるのです。

 

御子イエス・キリスト

 

肉によれば

 

肉(人としてのキリスト)

 

 福音というものがイエス・キリスト様によって成し遂げられたと言うことは、私たちがどれだけ強調してもしすぎることはないでしょう。「御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ」と語られています。この肉という言葉は人間の生まれつきの性質や、悪しき性質にも用いられますが、ここでは単に人間として生まれたときの血筋というような意味として使われています。それはイエス様が事実人間としてお生まれになった、人としてのキリストを表しているのです。

ダビデの子(王としてのキリスト)

 主は「ダビデの子孫」としてお生まれになりました。この事はイエス様が王としてお生まれになったということを意味していると言うことができるでしょう。イエス様が私たちにとって王であられる、私たちを支配されると共に確かな守りを与えて下さるお方であるということです。キリストの三職というとき、「王、預言者、祭司」という職務を兼ね合わせていると言うことですが、その王の部分を示しています。そして主は御言葉を語られることによって預言者の職を全うされたのです。

 

聖い御霊によれば

 

死者の復活により

 

続いてパウロは「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方」と記しています。死者の中からよみがえられたことにより、イエス様はご自分がただ人の子としてだけではなく、神の御子であられることを示されたのです。死者が復活されるというようなことは普通のことではありませんが、イエス様の場合は預言の通りに死に、またよみがえられたのです。

 

神の御子として

 

 その事実を通して「神の御子であることが公に示された」のです。もちろん死者の中からよみがえって神の子になったというのではありません。イエス様は最初から人の子であり神の御子であられました。しかしその事が広く誰にも分るように示されたのは、復活の出来事を通してであったと言うことができるのでしょう。パウロはその事をここで示しているのです。

 

私たちの主イエス・キリスト

 

主権者として

 

 キリスト様が王として私たちの中に君臨するお方であることをすでにふれさせていただきました。それは私たちが主の御前においてはしもべであり、主が私たちの支配者、主権者であるということです。私たちはこのお方の御前ではお従いする義務を負っている者として示されているのです。ただ私たちは今、主のご好意により、比較的自由に振る舞うことを許されていると言うことができるでしょう。しかし本来私たちはキリスト者、すなわちキリストのしもべとして召されているのです。

 

仲保者として

 

 この主イエス・キリストという表現の中にもう一つ私たちが知らなければならないこととして、仲保者キリストの姿です。「仲保者」という表現は普段あまり使いません。神様と私たちの間のとりなしてということを意味しています。主は私たちの大祭司として私たちの救いの完成のために執り成し、私たちの歩みが整えられるように祈っていてくださるということです。私たちはヨハネ一七章に主の大祭司としての祈りの姿を見ることができるのですが、主は私たちのために神様の御前に執り成しをしていてくださるので、決して神様の御前で萎縮してしまうことなく大胆に神様の御前に近づいていけるのです(ヘブル人への手紙四章一六節)。

 

キリストによって

 

使徒として

務め

 

 そしてこのキリスト様がパウロを使徒として召したというのです。「このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。」とパウロは語ります。彼は「恵みと使徒との務め」と自分の任務を語っています。パウロは自分の働きに喜びを感じることができるのは、彼が恵みの働きと呼んでいることにあるのだと思います。もし彼が律法を伝える働きについたのであるとすれば、権威を与えられたかも知れませんが、しかし喜びはないかも知れません。しかし今彼は喜びを感じてこの務めを果たしているように思えます。

 

御名のために

 

それともう一つ彼は「御名のために」と語ります。すなわち、神様の御栄光のために働いていることを知っていたのです。「名」というのはそれ自身の実体を表すもの、またその権威とか、力、そうしたものを表すものとして受け止められていました。ですから彼が御名のために働くと言うことは、彼自身が神様の権威や力を表すという意味を持っていると言うことです。ですから彼はその働きを通して神様の御力を示してきたのです。

 

あらゆる国の人々を

 

信仰の従順に

 

 彼が示した力というのは、彼が御言葉を語るときに、その働きを通して「あらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらす」ことにありました。そうした彼の働きは、使徒の働き、また彼の書いた一三の書簡、このローマ人への手紙から、ピレモンへの手紙までの書簡を通してみることができます。彼は現在のマスメディアや交通手段の発達していなかった時代の中で、一番多くの人々に、また一番広い地域に御言葉を語っていったのではないでしょうか。そして彼の働きを通して多くの人々が信仰に導かれ、悔い改めに導かれ、信仰の従順に導かれていったのです。

 

私たちもまた

 

 そしてここで私たちもまた主の導きの中でパウロと同様に信仰に導かれ、あるいは主の弟子として主のみ心に沿った生き方に召されているのであり、人々をキリストに導く導き手として召されているのであり、彼の勧めで信仰の従順に至るとともに、私たちを通して他の方々が信仰の従順に導かれていくために働いていくのです。ですから私たちもキリストの御名を伝えるための使者、すなわち使徒としての役割を担っているものであると言っても良いでしょう。もちろん神学的な意味からすれば使徒はイエス様の時代とその後の時代で終わっています。その意味で私たちは決して使徒ではありませんが、神様によってこの世に送り出されているという意味で、使徒の働きをになうものとされているのです。

 

イエス様に召された

 

召し(呼び出されたもの)

 

 パウロはここで「使徒の務めを受けました」、すなわち一節の言葉を用いれば、「召された」という言葉です。この言葉は「呼び出された」とか「招待された」というような意味を持った言葉です。ですからパウロは積極的にその働きを進めていっているのです。しかしパウロだけが召されているのではありません。また牧師や伝道者だけが召されているのではありません。私たちは主に救われただけでなく、皆が主の御名のために召されているのです。そして神様が私たちを召して、ご自分の働きに役立たせようとしていて下さるのです。

 

主のための働き人

 

 私たちは主のための働き人なのです。何ができるかはそれぞれのひとりひとりによって違うでしょう。でもどのような働きであっても主の働き人であり、主の召しに従って生きていくようになっていくならば、私たちの中に大きな喜びがやってきます。そしてその事が一層私たちを主のために働くことを喜びと感じるようにしていって下さるのです。今主のために何が出来るかを知り、それを実行していく時ではないでしょうか。皆さんが主の召しに答えて頂きたいと思います。

 

 

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