温かな心通い合うキリスト教会が心の癒しを提供

埼玉県日高市 日本長老教会 高麗川キリスト教教会

温かな心通い合うキリスト教会が心の癒しを提供 

 

 

 

福音の力

 

ローマ人への手紙一章八~一七節

 

ローマ人への思い

 

神様への感謝

 

ローマの教会の信仰が

 

 パウロはこのところで、いろいろと自分の気持ちをローマの教会の人々に語っています。そのところで彼が語る第一のことは、ローマの教会の人々についての感謝を神様にささげていることです。「あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。」と彼らは語っています。ローマの教会は決して大教会ではありませんでした。大ローマ帝国の首都として多くの人々が息づいている大都市の中で、決して大きくはありません。パウロは家の教会と呼んでいるほどです。しかしパウロはその教会について感謝しています。

 

信仰の確かさが

 

 それは彼らの信仰のゆえであります。それは彼らの信仰が、全世界に伝えられているからです。この「言い伝えられている」というのは、「広く伝えられる」という意味です。言い広められるほどの信仰と言うことは、彼らの信仰の内容とともに、信仰の確かさ、力強さというようなものであります。彼らは神様の祝福の中で、その信仰を確かなものにしていったのです。

 

神様を証人として

 

福音を宣べ伝え

 

 パウロはここで「私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかしてくださることですが」と語っています。彼は自分について自分の歩みについて神を証し者として自信をもっています。それは彼が傲慢であるというのではなく、むしろ神様の御前にへりくだって従っていることを伝えるために神にその事を頼っていると言うことなのです。

 

仕えている

 

 彼は神様の御前に喜んで仕えているものです。彼は、自分を「イエス・キリストのしもべ」として紹介しましたが、その姿勢はどのようなときにも変わりのないものとして主に仕えているのです。そしてここでもその彼の姿勢は貫かれているのです。ここで仕えていると訳された言葉は一二章一節で「霊的な礼拝」と訳されたときの「礼拝」という言葉と同じ言葉です。彼は心と霊を主にささげているのです。そしてその事を神様も証人になってくださるのです。

 

絶えず思い起こし

 

ローマのことを

 

 続けて彼は「私はあなたがたのことを思わぬ時はなく」とも語ります。彼はローマの教会のことをいつも心にかけていたことが分ります。もちろん彼自身ローマの教会の人々について面識があったわけではありません。知っている人物もいたのでしょうが、皆を良く知っているというわけではありませんでしたが、祈りの中で彼らのことを覚えていたのです。

 

思い起こすこと

 

 この「思わぬ時はなく」という言葉は、「絶えず思い起こして」ということです。彼はそうした祈りの時を持っていたのです。ひとりひとりのたましいを覚えていると言うことは伝道者の生き方の中で決して欠くことの出来ないものでしょう。そしてパウロはその様な伝道者の中でもほんとうに豊かにその様な思いを持っていたのではないでしょうか。

 

ローマ行きの計画

 

御心によって

 

ローマに行く計画

 

 次ぎに彼は「いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。」と語っています。彼はローマ訪問の計画を持っていたのです。この彼の計画はなかなか実現することができなかったのですが、結局彼のローマ訪問は、彼がエルサレムで捕らえられた囚人としてローマで皇帝の裁判を受けるためにローマに行ったことになり、囚人としてローマで軟禁生活を送るという形で実現しました。(使徒の働き二八章参照)

 

御心によって

 

 彼は自分のローマ行きを、自分の計画とか、自分の意志で行うものとしてはいません。彼はこの計画もまた、神様の御心の実現ということを願っているのです。御心というのは神様の御意志です。ですから彼は神様の御意志が実現するということの時を待っていたと言うことでしょうか。彼は自分の意志でローマに行くようなものではなかったということです。

 

ローマに行きたい理由

 

御霊の賜物を

 

彼がローマに行きたいと思っている理由は何でしょうか。「御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。」と語っています。私たちにとっては必要なのは「御霊の賜物」ということでしょう。私たちは主に仕えるときに必要なものとして「御霊の賜物」があると思います。この賜物を豊かにされることによって一層良く主に仕えることができるのです。ですから私たちは御霊の賜物を持つことが必要ですし、その事をパウロもローマの人々に求めているのでしよう。そしてその賜物をパウロは彼らに分けたいのです。

 

励ましを受けたい

 

 次ぎにパウロはその理由を少し言い換えて「というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」と語ります。この励ましを受けると言う言葉は「ともに慰められる」という意味でもあります。そこにあるのは霊的な交わりということです。キリスト教会の大きな特色は交わりということでありましょう。互いに愛し愛される、励まし励まされる、赦し赦されるという関係が築かれていく場であると思われます。

 

互いに励まされて(霊的成長)

 

いくらかの実を得ようと

 

 パウロは続けて「兄弟たち。ぜひ知っておいていただきたい。私はあなたがたの中でも、ほかの国の人々の中で得たのと同じように、いくらかの実を得ようと思って、何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。」と語っています。「いくらかの実を得ようと思って」と語っています。パウロは彼らとの交わりを通して「いくらかの実」を得たいと考えているようですが、ここで言う実とは悔い改める新しい信者ということだけではなく、彼らの霊的な成長ということを願っていると言うことでしょう。

 

霊的な成長を

 

 ここで言う実というのは様々な意味があるでしょうが、一つ言えることは御霊の実ということでしょう。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ人への手紙五章二二、二三節)という御言葉があります。そこには人格的成長という言葉が適切なのかも知れません。教会としては人数が増えるというようなことも重要ですが、それとともにそこに集う私たちひとりひとりが御言葉によって変えられることが必要なのです。

 

パウロの負っている負債

 

負債という意味

 

負債がある

 

さてパウロは次ぎに「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。」と語っています。かれは「負債」という言い方をしました。この言葉は例の山上の垂訓の「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」(マタイの福音書六章一二節)という時の「負い目がある」ということに通じています。山上の垂訓では罪と言うことを意味していますが、このロマ書では彼自身が義務と感じていることとして書かれています。

 

福音を語ること

 

 それは誰からか強制されてというのではなく、彼自身が自分の使徒としての使命として受け止めているという意味で、「負債」なのです。彼自身で設けた彼の責任なり使命と言うことです。そしてそれは「福音をかたること」を意味しています。ですから彼は「ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」という言葉として語っています。彼にとって福音を語ることは、負債を支払わなければならないのと同様に義務と感じていることなのです。

 

福音を誇りとして

 

 彼にとってキリストの福音がどのような意味を持っているかというと、「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」と語っています。福音は彼にとって大きな誇りであります。彼は神様に召されて使徒になりました。しかしその時に大切なことは彼が全く罪を赦されて神ご自身の御声を聞き、使徒として召されたと言うことです。ですから彼が福音を伝えると言うことは彼の生涯をかけてもなさなければならない、生涯の仕事として彼の中に位置づけられたのです。

 

福音の力

 

 それは彼にとって福音が単に絵に描いた餅、何の力もないものではなく、特別な力をもったものとして迫ってきたからです。「救いを得させる神の力」と語られています。彼は「福音の力」というものを感じていたのです。彼が御言葉を語ることを通して現実に変えられ、救われることを通してその力を実感していたのでしょう。私たちは「神様の御力」を体感していく必要があるように思います。福音の力はどのようなものかと言うことは一つの御言葉を上げれば、「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」(ローマ人への手紙一五章一三節)というようなこともあるようです。

 

義人は信仰によって

 

信仰から信仰へ

 

そしてパウロは「信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです。」と語っています。福音の力は何よりも私たちを救いだす力です。同時に私たちを造りかえて、信仰を養う力でもあります。「信仰から信仰へ」という表現はまさに信仰の成長を物語っているのです。

 

信仰によって生きる

 

 私たちは信仰によって生きることを求められています。信仰によって生きると言うことは、信仰を私たちの価値の中心におくことです。それは、神様の御前で自分自身を明け渡し、御心に沿って歩んでいくことを求められていると言うことです。私たちにとって価値あるものはたくさんあります。しかし、そのどれとも比較にならないところに信仰があるというような意味で、信仰をおいていくことなのです。

 

 

 

 

 

人間の大きな罪

 

ローマ人への手紙一章一八~二三節

 

神の御怒り

 

信仰に始まり信仰に進ませる

 

福音の伝えるもの

 

 パウロは前節において「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである。」と語っています。福音の中に啓示されているのは神様の義と言うことであります。それは神様が私たちに恵みとして示されているのです。ですからその神様の義を私たちが受けるためには信仰しかないということが言えるのです。「信仰による義人は生きる」ということは解釈が色々あるようですが、いずれにしても神様の恵みにすがりながら生きていくのです。

 

恵みによってもたらされ

 

 ですから私たちが神様の御前に生きていくと言うことは、「神の義は、その福音の中に啓示され」と示されているように、神様の恵みによって神様の義が私たちにもたらされるということです。ですから私たちはこの神様から与えられる恵みを喜んで受け入れる、その事が私たちにとって重要なことです。私たちが信仰においてしっかりと留まっている、確信をもっていると言うことが大切なのです。

 

不義をもって真理を阻む

 

不義とは

 

 「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」と書かれています。ここで言う「不義」という言葉は、「不正」とか「悪事」というようないう意味内容を示しています。ここで「不義」と訳された言葉は、その後の「不正」という言葉と同じ言葉を持っているのです。

 

真理を阻む

 

 真理を阻むというのは「つかまえる、縛る、捕らえる、拘留する、抑圧する」ということです。ここで言う「真理」というのは本当のこと、ありのままというような意味であり、また真理と言うことは単に本当のことというだけでなく、神様の教えを含む真理と言うことであります。すなわち私たちはその真理を押さえ込んで、分らないようにしてしまうと言うようなことがあってはならないと言うことです。

 

神の御怒りの啓示

 

神の御怒り

 

 そうした現実についてはそこに「神様の怒りがある」と言うことです。ここで言う怒りというのは、「感情の爆発」というような怒りではなく、定着したまま吹き上がってくる怒りの感情のことであり、激しい怒りであることに違いありません。神様が罪の世界に対して激しい怒りを感じているということです。

 

啓示される

 

 この啓示するというのは「ベールを取り除く」というような意味であります。それは今まで隠されていた内容のことが公に示されるという意味であります。神様が怒りをそれまでは明らかにされなかったが、この終わりの時になって、神様がご自分の御怒りを明らかに示されたのです。しかしなお神様はこの怒りを現実として表すことは忍耐を以て待っておられるのです。「ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。」(ローマ人への手紙九章二二節)

 

神について知りうる事柄ら

 

神の目に見えない性質

 

目に見えない性質

 

 さてここで私たちは今回の学びの本論に入っていきます。それはまず神様の御性質と、それがどのように示されているかということです。私たちは神様というお方を現に目で見ることはできません。またその性質についても言葉で説明してもしつくすことが出来るものでもありません。ウエストミンスター小教理問答書には「神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです。」(問四答)とあります。しかし、もう一つ良く掴めません。

 

永遠の力と神性

 

 神様というお方はこの答にもありますように、永遠のお方であり、ここに掲げられているような様々な素晴らしい御力をもっておられるお方であります。神の力と本性というのは、神様がどのようなお方であるかということを示すものがこの言葉によって表されていると言うことです。

 

被造物によって

 

神様によって造られた

 

 私たちは神様がこの世界のすべてを造られたものであることを信仰をもって受け入れています。神様がすべてのものを作られたものであるということは、その中に神様の御心が示されているものとして受け入れていくことが出きるでありましょう。そこで詩篇の作者は「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」(詩篇一九篇一節)と語っています。

 

神様の御性質を

 

 私たちはこの被造物の中に神様の御性質を見ることができます。「すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」とパウロは語っています。私たちは造られたものの中に神様の御性質を見ることができると言うことを良く知っておきたいと思います。

 

弁解の余地なし

 

神を知ることができないこと

 

 わたくしたちは神様の御性質がどのように被造物に現れているのか、たとえば、動物の中にも子供を思う親の姿の中に神様の愛を感じられる事もありましょうし、様々な面で神様がどのようなお方かを知る必要があると思います。またそれを知るようになっていくことが本来の学問のあり方の一つであるということができるでしょう。ところが現実の学問の世界では、特に日本の学問の世界では無神論的な発想が根本的にありますので、神様の御性質を表そうなどという発想は全くありません。その様な中では被造物を通して、神様の御性質を知るというようなことができるようになってはいないという事です。

 

弁解の余地がない

 

 「被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」とパウロは語ります。その様にはっきりしている神様の御性質をなぜ私たちは明確に受け止めることが出来ないのだろうかということが疑問になってしまうかも知れません。しかし現実には、そうなっていません。そこには何か問題があるのではないでしょうか。そこに問題があるとすれば何か。パウロは「不義をもって真理をはばんでいる」ということがあるのと語ります。そこには人間の罪の問題があるということが言えるのです。私たち人間の罪のゆえにゆがんでしまった人間の心のゆえに、神様の性質、神様の御心を知ることができずにいるのです。

 

人間の大きな罪

 

神としてあがめない

 

人間の罪

 

 それでは人間の罪とはどのようなものでしょうか。パウロは「彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」と語っています。もし私たちが真実に被造物の世界、言葉を換えれば自然を見ていくことができれば、神様の御性質などを明確に分っていくことができるはずです。しかしその様なことが現実にできないところに現在の人間の問題点があるのです。

 

神としてあがめず

 

 パウロの言葉の中にある「神を神としてあがめず」ということです。「神としてあがめない」というのは、ドクサゾーという言葉が用いられています。このドクサというのは、栄光という意味です。ドクサゾーは栄光をあらわすという意味の言葉であり、人間の生きる目的として「神の栄光をあらわす」ということに通じます。ということは人間が本来の目的からはずれて、自分勝手な生き方をするようになっているということが罪の本質と言うことなのです。神としてあがめないということは、神様の栄光をあらわすような生き方ではなく、自分の栄光を求めていく生き方ということになるのでしょう。

 

思いが空しくなる

 

空しくなる

 

 次ぎにパウロが語っているのは「心をむなしくする」ということです。心の空しさというのは、刹那、刹那の生き方を生み出すものに通じていくのです。むなしい心は何かによって埋めたいという思いが強くわきます。それを人間が埋めようとするときには、刺激の強いものを追い求めていくようになるのでしょう。そして現代社会においてはそうした刺激の強いものはいくらでもあるように思います。しかしそのどれもが、決して人間の虚しさを埋めることが出来ないものであることに多くの人が築けないでいるのです。人間の心の空しさを埋めることができる唯一のものは、神様の御心に従うことなのです。

 

暗くなる

 

 パウロは続いて「その無知な心は暗くなったからです」と語ります。「無知な心」というのは、いわゆる一般的な無知な心ということではなく、「神様に対する無知」ということに通じるでしょう。神様を恐れることが私たちの知識の初めであることを箴言の著者は語ります「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」(箴言一章七節)であるとするならば、神様を信じ恐れることをしないことは他ならぬ無知であるということになるのです。多くの人々が何か物知り顔に言うのですが、しかしその本質を掴めずに、迷っていると言うことは、人々の知識が本当の真理にたどり着いていないからと言うことができるでしょう。

不滅のみ栄えを像にする

 

神としてあがめず

 

 そしてその無知な心は彼らの中に一つの偶像を作り上げていくのです。「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」と語ります。もちろんパウロの時代にはそうした偶像は具体的な像として造られたかも知れません。しかし現代社会での偶像は、必ずしもいわゆる偶像を造るだけではなく、一人一人の心の中に自分の自由にすることができる神を作り上げることをしていると言えましょう。彼にとって何にも変えがたいものがあるとすれば、それがその人にとっての神になっているということではないかと思います。自分で自分の自由にできる神、それが偶像です。

 

まことの神に

 

 私たちにとって大切なことは真の神様を第一にした生活であり、神に取って代わるべきものは何もないということではないでしょうか。「不滅のみ栄え」は神にのみあることを認めて、神様の御心を求めていくことです。その様に私たちがお従いしていくときに、私たちにとって真の救いにあずかることが出来るのです。

 

 

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