恐ろしい人間の罪
ローマ人への手紙一章二四~三一節
性の乱れ
心の欲望のままに
心の欲望(エピスミア)
パウロは人間の罪について大変厳しい姿勢をもっていることは皆さんもご承知のところであると思います。この二四節で、「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。」と語っています。人が「心の欲望のまま」と語るのです。特にこの言葉は「性的欲望」というような意味合いをもった言葉です。人間の陥りやすい面に、性ということに抱いてる過度な期待のようなことがあります。
心のむさぼり
人間の弱さは禁じられたものへの欲望と言うことがあるように思います。欲望という言葉は「むさぼり」と言うことをも意味します。人の心にあるのはいろいろな本能的なものからくる欲望です。しかしそれが適正にコントロールされているときには何の問題もないのでしょうが、それが、コントロールがきかなくなったときに、正常ではない方向に行ってしまうのです。その点で大きな問題が出てくるようになります。
神のさばきとして
神のさばきとして
続いて彼は「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え」と語ります。ということは、大変厳しい現実かも知れませんが、人間の道徳的な堕落は、神様のある種のさばきの結果であるということができるのでしょう。それでは神様が罪を犯しているのかというと決してそうではなく、あくまでも人間の罪ゆえではあります。
不道徳を行う
そして、神様からある意味見放されたような状態になった人間は、それとも気付くことなく、不道徳な方向に進んで行ってしまうのでしょう。ここには性的な不道徳ということが描かれていますが、それだけではなく様々な面での不道徳ということがあるのだと思います。
同性愛の氾濫
男と女のあり方を
しかし一番象徴的に現れるのが性的な問題であります。「すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男同士で情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。」と語っています。性の問題というのは、神様に赦された男と女の間で、その関係が持たれると言うことが聖書の教えであります。
同性同士で
ところが、ここに出てきているのは同性愛という問題であります。諸外国におけるこの問題はしばしば報道され、同性同士の結婚も認められるというような時代になってきています。もちろん医学的に問題視される性同一性症候群のような問題がありますので、何もかもひとくくりにすることはできないかも知れませんが、同性同士でということの中に何か退廃的なものを感じるように思えます。ですから私たちはこうした傾向にある社会の動向にしっかりと注意深い目を注いでいくことが必要でしょう。
罪のリスト
神を知りたがらない
神を認識して保つ
続いてパウロは「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。」と彼は語っています。この「神を知ろうとしたがらない」と語られている言葉は、「神様を認識して、それを保つ」というような意味であります。神様についてまず良く知っていることができなければ、神様の御心に従うというようなことはとてもできないでしょう。
神の教えを無視して
彼らは神様を「知ろうとしたがらない」ということは、神様を無視し、またその教えを無視していると言うことであります。私たちが神様から造られたものであるということを認めるとするならば、神様を無視することなどあり得ないのでしょうが、自分が神様によって造られたものであるという認識を持たない者、それを無視する者は、決して神様に従うようなことは出来ないのでしょう。
人の心にあるもの
悪意
そうした中で、パウロはここに人間の陥りやすい罪についてリストを上げて示しているのです。「あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。」と示していますが、もちろんこれで全部と言うことではありません。代表的なものを上げたのでしょう。その中で人の心にあるものでまず悪意というものを取り上げてみましょう。悪意というのは現実に人に悪を行うことなのです。
嫉妬
もう一つ取り上げると「嫉妬」ということがあります。人間の持つコントロールしにくい心のあり方の一つに嫉妬心、別の言い方では「ねたみ」と言うことがあるでしょう。「人をうらやむ気持ち」です。こうしたことは誰にでもある気持ちでしょうが、その背後にはいつも他者と自分とを比較している姿があるように思います。
他者との関係の中で
人を人とも思わぬもの
次ぎに他者と自分の関係という面でのリストの中から取り上げてみますと、「人を人とも思わぬ者」ということが書かれています。高慢、傲慢というような心のあり方です。この人を人とも思わぬ者と訳された言葉は、「無礼な人、横柄な者」というような意味の言葉です。口語訳は「不遜な者」と訳し、共同訳は「人を侮り」と訳しています。他の人を顧みることのない様な優しさが欠けているのでしょう。
わきまえがない
もう一つ取り上げると「わきまえがない」ということです。この言葉は「悟りの悪い、道理の分らない」というような意味です。道理というのは神様の御教えに従わないという意味の言葉でありましょう。そのことのゆえに人と人との関係の中でも、もっている力で、相手を威圧したり無理を押し通したりすると言うことを平気で行うような者、このリストの中の最後に出てくる無慈悲な者(共同訳)にも通じていくようなことになるのでしょう。神様に従わないと言うことの一つの問題点でしょう。
死罪にあたることを知りながら
神の戒めを知っている
ほとんどの人が
「彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。」とパウロは語っています。私たちは実際問題として信者であろうが未信者であろうがほとんどの人が神様の戒めを知っているのでしょう。しかし彼らはそうした神様の意向や御心を無視して生きているのです。私たちの現実の中で、神様を意識して生活すると言うことがなくなり、自分の力や自分の意向で何でもできるかのように思い込んでしまっているのです。
死罪にあたる
「死罪にあたる」というのは、「死に値する」ということです。私たちの罪は「死に値する」ということなのです。私たちは自分の罪が「死に値する」ということはなかなか理解できずにいるのです。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」(ヘブル人への手紙九章二七節)と語られていることは良く知られているところでありますが、私たちはこの現実に目をもっと向けていかなければならないように思います。私たちはこの様な現実の中で救いを頂いているのだと言うことです。
悪を行っている
悪を行っている
ここでパウロがリストアップしたようなことは全部といわないまでも、私たちも何か複数のものを行ってしまっているということがあるのではないかと思います。また今は行わなくなったけれどもかつては行っていたということもあるでしょう。私たちは自分がそれほど強い意識がないのかも知れませんが、悪を行い、罪を犯してしまっているのです。そしてその罪を犯した私たちは、死に定められるはずの者だったのです。
悪しか行えない
後にパウロが「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。」(ローマ人への手紙七章一五節)と語っています。さらに彼は「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。」(七章一八節)と語ります。私たちはパウロのような人物ですらこの様であるならば、まして私たちは彼以上に日々に罪を犯していると言うようにしか言えないのではないでしょうか。
同意している
判断基準のずれ
彼は言います。「それを行なう者に心から同意しているのです。」といっています。この「同意しています」という表現ですが、「共に」と言う語と、「気に入る」という言葉が結びついた言葉です。双方の意見が合致しているのです。しかしここで問題なのは、その行動を肯定しているのでしょうが、実際はその判断基準に問題がある、あるいは神様の定めた基準からはかなりずれてしまっているために大きな問題があるのです。
神の救いの道
パウロは言います。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」(ローマ人への手紙七章二四、二五節)と。幸いにして私たちには神様が設けて下さった救いの道が開かれているのです。私達自身の中には救われることの手だてはありませんが、私たちの主イエス様が私たちのために救いの道を開いて下さったのです。そして信仰はこの救いを私たちにもたらしてくださることができる神様からの恵みであります。私たちはこのイエス様を信じることを通して、私たちもまた新しい人生に歩み出すことができるのです。
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