温かな心通い合うキリスト教会が心の癒しを提供

埼玉県日高市 日本長老教会 高麗川キリスト教教会

温かな心通い合うキリスト教会が心の癒しを提供 

聖書研究 詩篇 

 

詩篇1篇

 この詩篇は詩篇全体のプロローグであり、またその中の第一巻のプロローグとも言えるでしょう。作者はここで、「幸い」について語っていると言えましょう。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。」と語られています。この「幸いなことよ」と訳された言葉はエシェールという言葉ですが、これは新約聖書の山上の説教「幸いなるかな」という言葉と同様です。間投詞ですから、「何て幸いなのか」という訳でも良い言葉です。

 それでは何が幸いなのでしょうか。まず「悪者のはかりごとに歩まず」と言うことです。それは悪者の計画を行わないと言うことです。ここで言う悪とは「邪悪な」とか、「意地悪な」というような意味です。神様に対しては邪悪な計画、人を神様に敵対させようとするような計画であり、具体的には人を偶像礼拝に導くようなこととも言えるでしょう。特に旧約という世界の中ではその様に言うことが出来るでしょう。

 それでは現代社会ではどうでしょうか。それは貪りのことと言えるかも知れません。「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ人への手紙3章5節)と語られています。そして現代社会の消費文化はまさにこの貪りと言うことの行き着くところのような気がします。

 一見高度に発達したこの様な消費文化は私たちに幸いをもたらしてくれたような気がします。しかしその一方で人間性のようなものが無視されたり、環境の悪化を招いたり、多くの解決困難な問題をあらたに提起しています。と言うことは、決してそれらの文化は人間に幸いをもたらしたものではないと言えるのです。もちろんだからと言って私たちはそうして発達した文化を悪と評価することも出来ません。その恩恵にあずかっている人々が沢山いると言うことも事実だからです。

 それではどの様なことが言えるのでしょうか。人間のもたらした文化は善でも悪でもない中立のものなのだと言うことでしょう。むしろそれを用いる人間のあり方が、その様な文化を善にも悪にも変えていくのだという事実です。その意味で「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人」と言うことが言えるのではないでしようか。

2節を見ますと「まことに、その人は主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。」と記されています。ここにはその人の生き様、生き方の基本が記されています。ここに記されていることは、何も常に暗唱聖句をしているというのではありません。その生活が御言葉と共にあると言うことです。「主の教えを喜ぶ」と言うことが基本にあります。それは決して自己主張をしていないと言うことです。神様の御前に常に謙遜になって、へりくだって、従っていくことが出来るという生き方なのです。

3節はその結果が語られ「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」と語られています。その成果は「実」として結ばれるのです。ここで「実」とは何かと言うことが問われるのかも知れません。良い結果と言うことがまず考えられます。「なにをしても栄える」という下りはまさにその事を指しているでしょう。その様な面が一つ確かにあると言えます。

また新約聖書の中の「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ人への手紙5章22、23節)とありますから私たちが求めていくものはこのような実であると言うことも出来るのではないでしょうか。

4節を見ますと「悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。」と語られています。ここに見られるのは悪者(ここでは神様に従わないものと理解しても良いであろう)その生き方の空しさのようなものを示していると思えます。まず彼らの残したものが「もみ」ではなく「もみがら」なのです。これは前者の「実」に対する実の抜け落ちたからに過ぎないものとしての空しさを表していると言えましょう。

しかもそのもみがらは「風が吹き飛ばす」と語られているように、何も残らないものなのです。それもまた空しさを表していると言えましょう。多くの人があくせくと何かを残そうと思いながら労するのですが、そこに残されるものはもみがらのようであり、また風が吹き飛ばしてしまうようなものに過ぎないのです。それを旧約聖書の賢人は「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」(伝道者の書1章2、3節)と語っています。神様を抜きにした生き方の全ては空であります。空しいものに終わるのです。

5節 「それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。」と語る時に、この「正しい者のつどいに立てない。」ということは教会の交わりに出席出来ないというようなことではないでしょう。むしろこれは前段の「さばきの中に立ちおおせず」と言うことの意味内容の繰り返しであると言えます。そこにあるのは神の座であり、しかも神のさばきと言うことです。悪者はその罪をさばかれ、有罪とされる時に、正しいものとは明確に区別されるのです。

6節 「まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。」とこの詩篇を結んでいます。主は知っておられるという時、「正しいものの道」とは何なのでしょうか。繰り返し行われた正しい行いという意味では決してないでしょう。むしろここでは「神に従い、自分の罪を悔い改め、神様を信じる信仰の道」を語っているのです。

それに比べて悪者の道は「滅び失せる」道です。それは悔い改めのない道、従わない道、自己主張と自己義認の道と言うことが出来るのでしょう。それは一見「悪者の道」とは思えないのかも知れません。そこに正義があるかのようにも見える場合がしばしばです。新約の時代に、律法学者やパリサイ派の人々を見て誰が悪者と思ったことでしょうか。一見すれば何も悪いところがないように思える人々、しかし神の目には「滅び失せる」と言われるような生き方があることに気をつけて、私たちがあるべき道に進みたいと思うのです。

 

 

 

 

詩篇10篇

 この詩篇は前篇と一つの詩篇だったと考える人々がいるのは前回の説明の通りです。またそのように理解するのが自然のようにも思えます。

 悪者と繁栄(1~11節)

 1節で語られている、前篇では悪者は国々の民(異邦人)でしたが、ここでは振興部会イスラエルの民を圧迫する不敬虔な異邦人でした。主は「遠く離れて立って」何もしないように思われるのです。彼らにとってそれは身を隠しているようなものであって、もし正義を守られる神であるならば、わるものをさばいてくれるように願うのです。「苦しみの時」と訳された言葉は、基本的には「欠乏の時」とか「干ばつの時」というような意味です。

 2節において、「悪者」は「邪悪な者」で、「悪意を持っている者」と言うことが出来ます。「悩む者」は同時に「弱い者」でもあり、そのような人々に対して「追い迫る」というのは、「火がじりじりと燃えていって、煙によっていぶり殺される」ような様子を示しているのです。そこには苦しみが描かれています。そのように苦しんでいるのに、神様は身を隠されたかのように何もされないのです。「彼らは自らもうけたたくらみに、捕らえられる」これは以前に説明したエステル記に記されたハマンの例のように、自らの滅びを招くのです。

 3節にあるように「邪悪な者」たちは「おのれの欲望に誇り」を持ち、彼らは「主をのろいまた侮る」のです。ただここでの訳は、共同訳では「主をたたえながら、侮っている。」と訳していて、形式的には主を讃美していても、実は侮っているのです。そこでの意味は、「捨てる」という意味があります。

 4節のように「邪悪な者たちは高慢な顔をしている」のです。そして彼らは「神を尋ね求めない」のです。この高慢な者、邪悪な者の特色がそこにあるように思います。彼らの思いは「神はいない」が全てなのです。

 5節で作者は言います。「彼の道はいつも栄え」ているように見えるのです。この言葉は「踊る」とか「身もだえする」というような意味で、一見彼らは「危なげないように見える」のです。しかし、彼らはこの世的には栄えているように見えます。その理由は「あなたのさばきは高くて、彼の目に、はいらない」からなのでしょう。従って彼らには今裁きが隠されているのですが、「敵という敵を、彼は吹き飛ばす」と言う時があるのです。

 6節で「彼は心の中で言う。『私はゆるぐことがなく、代々にわたって、わざわいに会わない。』」と彼らが言う時、それは彼らが不運に、悪い出来事に遭うことがないと思っているのです。彼らは自分たちは安全だ、と言うのです。

 7節では詩篇の作者は「彼の口は、のろいと欺きとしいたげに満ち」と語っています。これ以上ないような言葉を用いて、「悪者」たちを攻撃しています。神を信じない者はその口からどうにもならないような言葉が繰り返されるのです。「口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」(マタイの福音書15章11節)とイエス様は語られたのです。

 8節と9節では悪者たちの残虐行為がどれほどのものであるかがうかがい知れるのです。「彼は茂みの中の獅子のように隠れ場で待ち伏せている。彼は悩む人を捕えようと待ち伏せる。悩む人を、その網にかけて捕えてしまう。」と語られています。「悩む人」というのは、口語訳や共同訳では『貧しい者』との訳が与えられ、その意味には、貧しい者、悩む者の意味の他に、「弱い者」との意味があります。この様に全ての弱いものが彼らの餌食になっていくのです。

 10節において「砕かれ」と訳されたことばは、「押しつぶす,砕く,粉々にする」と言うような意味です。ここでは決定的な破滅が起こるのです。

 11節では「神は忘れている。顔を隠している。彼は決して見はしないのだ。」という彼らのことばは、何と高慢で、不遜な者でしょうか。ここにどうにもならない彼らの罪の深さを見ることができます。

 

 神への訴え(12~15節)

 12節には「主よ。立ち上がってください。神よ。」と作者は訴えます。また「御手を上げて下さい」と訴えています。主が行動を起こされるようにと必死で訴えるのです。手を上げると言うことにいては「そうではない。エフライム山地の出身で、名をビクリの子シェバという者がダビデ王に向かって手を上げたのだ」(\x{fffd}Uサムエル20章21節)と言うことから分るように、敵対することである。神様がこれらの悪者に速く負かせてくれるようにと祈るのです。

 13節にある「追い求めない」ということばは、「尋ね求める、探す、尋ねる、要求する、忠告を求める、問う、調べる」ということばを否定しているのです。その求めるというのは、とがめると言うことです。すなわち神は彼らを罰することはありませんと言うことなのです。それこそ彼らは神を侮っているのです。これほどまでに彼らは神様を否定しているのです。

 14節で神様が彼らの「害毒と苦痛を」見ていたというのです。この言葉は「苦労と悲嘆」という意味であります。神様は確かに神に助けを求める人をその御手の中に守って下さるのです。神は弱いものの見方であるとかれは明確に告白しています。

 15節で彼は一つの祈りを捧げるのです。「悪者とよこしまな者」というのは区別されているのではなく、繰り返すことによって強調していると考える方がよいでしょう。そして彼らの「腕を折る」と言われます。これは彼らの力が働かないように、「粉砕してしまう」ようにと求めているのです。

 神は祈りを聞いて下さる(16~18節)

 16節、ここでは再び国々に言及が及ぶのです。悪者と異邦人を同一視することは出来ないでしょうが、この旧約という制限の中では、同じような結末が待っているということが言えるでしょう。しかし今の新約の時代にあっては、国という概念は当てはめられない。基本にあるのはここの人々の信仰と言うことが言えます。

 17節では「心を強くし」というのは、「心を堅く据える」という意味です。それは「あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました」と言うことの結果として、神が私達を守って下さると言うことです。

 18節ではとりわけ「みなしごと、しいたげられた者をかばってくださいます」と語っています。それは神様が弱い者、虐げられている者、悩む者の声に耳を傾け、その祈りを聞いて下さることにより、守られるのです。

 

 

 

詩篇11篇

指揮者のために。ダビデによる

1節 主に私は身を避ける。どうして、あなたたちは私のたましいに言うのか。「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け。」

 ここでは詩篇の作者の境遇が明確ではありませんが、彼の置かれていた状態は、多分エルサレムの町から逃げ出していかなければならない状態に置かれているのでは中と思われます。彼は「主に私は身を避ける」と叫ぶのです。彼にとって唯一信頼し、身を寄せることが出来るのは主ご自身だけであったのです。

 「あなたたちは」というのは、彼が住んでいた町の人々であり、かれはこの町から逃れる以外に救いがないと思えるような状態であったのです。彼らは「「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け」と言われたのです。

 ダビデはもちろん完璧な人間ではありません。しかし、彼がこのように彼の町から追い払われていかなければならないようなものでもないはずです。彼はイスラエルに素晴らしい繁栄をもたらしたはずですし、彼は主のしもべとして神に仕える生涯を送ってきたはずです。しかし人々は彼を町から追放しようとするのです。こうした苦しみがなぜ与えられるのでしょうか。

2節 それ、見よ。悪者どもが弓を張り、弦に矢をつがえ、暗やみで心の直ぐな人を射ぬこうとしている。

 「悪者」と語られている言葉は「罪、邪悪な」というような意味です。その様なものが暗闇から心のすぐなものに矢をいかけようとしているというのです。ここでは邪悪なものと心の直ぐなものとの対比があります。「心の直ぐなもの」という表現は、「心が平らである」と言うことで、心に邪心のないものという意味です。悪者はその様なものを陥れようとするのです。

3節 拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。

 彼は「拠り所」と語ります。彼にとっての拠り所は、ダビデの町であります。エルサレムそのものでありましょう。そこは彼にとって、信仰的な拠り所であり、また要害としての軍事的な拠り所でもあるからです。そこから彼は追い出されてしまうのです。そうした彼にとって守りがないような場であれば、何も出来ないと考えられるでしょう。

4節 主は、その聖座が宮にあり、主は、その王座が天にある。その目は見通し、そのまぶたは人の子らを調べる。

 このように困難な状況、全く希望も無ければ、何の拠り所もないような場で、彼が唯一の拠り所として求めたのは、主ご自身でした。「その正座は宮にあり」とかれは語ります。しかしその宮のあるエルサレムから追放されている彼は、主の聖なる座から遠いのでしょうか。いや、本来主は人間の造られた宮などに住まわれるのではなく、「その王座は天にある」と語られる通り、「天」にあるのですから、決して私たちは失望することはないのです。

 彼は語るのは神様の目です。それは私たちのすべてを見通すのです。また「まぶたは人の子らを調べる」というのです。この人の子というのは「ベン アダム」です。土塊に過ぎないものの子供ですから、私たちもまた土塊に過ぎません。その様なものを神は調べられる、テストするとか、吟味すると言うようにされるのです。そこではどの様な言い訳も通らないでしょう。ですからその神様の目を知るものは、自らを律することが出来るのです。

 

5節 主は正しい者と悪者を調べる。そのみこころは、暴虐を好む者を憎む。

 ダビデはここで「調べる」という神のわざを繰り返されるのです。しかもそれは悪者だけではなく、正しいものをも調べるのです。私たちは皆主から調べられるのです。もちろん主の御前では罪のないものは誰一人いません。ですから、もし主の慈しみがないならば、主の赦しがないならば、私たちは救われることがないのです。旧約時代にあっては、人々は、犠牲の供え物を献げることを通して、許しを得ました。その時であっても、信仰によって救われると言う原則には変わりがないのです。正しい者と悪者との違いは何かと言えば、それは信仰があるかないかの差と言えます。ここで悪者というのは罪を犯している者のことと考えられます。

 「暴虐」と訳された言葉は、「暴力」的な意味と、「不正、不法」というような意味とがあります。新改訳聖書は口語訳聖書と共に前者として理解しました。共同訳聖書は後者に取っているようです。もっとも、暴力なども不正、不法と理解されますから、後者の意味はより広く理解していると考えられるでしょう。その様な者を好む、もっと意味を強めて訳せば「愛する」者なのです。

 そして「みこころ」と訳した言葉が最後に置かれています。その言葉はネフェシュです。それは「ハート」であり、「マインド」であり、「いのち」であります。「自身」という意味もあります。それは主ご自身の本質にかかわることと言えましょう。決して悪を許さない存在としての主の姿が描かれているのです。

6節 主は、悪者の上に網を張る。火と硫黄。燃える風が彼らの杯への分け前となろう。

 その様な主のみ心のゆえに、主は罪を犯しても悔い改めない罪人に対しては、「網を張る」のです。この網というのは「鳥を獲る網」のことで、目の細かい網で、そこに鳥が飛んでくれば、網にひっかかって皆捕まえられてしまうような網のことです。「火と硫黄」というのは、火山が爆発した姿を思い浮かべればよいでしょう。火山から紛失した者がすべてを飲み込んでしまう姿を示しています。「燃える風」は火山ガスが山肌を一気に下って、すべてを焼き尽くすような姿が想像できます。それが罪人に下される神様の裁きです。それらは彼らの置かした罪に対する当然の裁き、「彼らの杯への分け前」になるのです。

7節  主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。

 しかし、その主は正義の主です。決死むやみやたらに人を裁かれるお方ではありません。「直ぐな人」は「御顔を仰ぎ見る」と語られます。「直ぐな人」というのは、正直な人という意味です。心が素直で、自分が罪人だと知って、直ぐに悔い改めが出来る人のことです。主の御顔を仰ぎ見ると言うことは、罪人には出来ないことです。でも罪が赦されている者は、普通「御前」と訳される言葉です。人間の前には顔がついています。この顔を見ると言うことは恐れ多いことです。しかし主に愛されている者はそれが赦されるのです。

 

 

 

 

詩篇12篇

1      世を救って下さるようにとの願い

12:1主よ。お救いください。聖徒はあとを絶ち、誠実な人は人の子らの中から消え去りました。

 彼は「主よ。お救い下さい」とうったえます。この救うという言葉はホサナと人々がイエス様を賛美した言葉と同じ言葉で、「ホシアー」という言葉です。彼は敵に囲まれているように感じていたのではないでしょうか。それは具体的な敵というのではないかも知れません。ただ彼はある種の危機感を感じていたようです。それは「聖徒はあとを絶ち、誠実な人は人の子らの中から消え去りました」という状態にあったからです。ここでは同じ内容を繰り返すという手法が獲られていますが、この聖徒という言葉を共同訳聖書は「主の慈しみに生きる人」と訳し、また誠実な人を「信仰のある人」と訳しています。主の恵みに生きると言うことを課が得れば、共同訳も大変分りやすい訳と言うことが出来るので着ないかと思います。この言葉はもともと「信じる」という言葉ですから、信仰に満ちた人と言う訳が当てられるのでしょうから、共同訳はその意味ではふさわしいと言うことが出来ます。ただ2節との関わりから考えれば、誠実な人と言う訳は一番ふさわしいと言うことも出来ます。そしてどちらをとっても大きな意味の違いはないでしょう。

12:2人は互いにうそを話し、へつらいのくちびると、二心で話します。

 「人は互いにうそを言い」とあります。人のうそはどこから生じるのかと言えば、「へつらい」と「ふたごころ」ということから生じてくるのでしょう。真実を語ると言うことよりも、相手に気に入られようとする、また「二心」で話すというのです。この二心と訳された言葉は、「心と心」という言葉で、心という言葉を二回用いて表しています。一方の心はこちらに、もう一つの心はあちらにと向いているのです。ですからそれぞれに都合のいいような対応をするのです。しかし実際の心は一方にあると言うことで、とうてい承伏できるものではないのです。

12:3主が、へつらいのくちびると傲慢の舌とを、ことごとく断ち切ってくださいますように。

 へつらいと言うことについて考えますと、この言葉のもう一つの意味に「なめらかな」という意味があります。これは言葉が滑らかに出てくることを表しているのでしょう。饒舌と言うことなのでしょうが、その分真実さに欠けてしまうのかも知れません。とつとつとした言葉、言葉がスムースに出てこないと言うことにいささか私たちは苛立ちを感じることもありますが、その様な人にしばしば真実みがあることを知ることがあります。私は職人の世界で育ちました。多くの場合、職人の人たちはしゃべることが下手ですが、しかし彼らの多くは人間的にも誠実な人たちでありました。

 もう一つここでは「傲慢の舌」と書かれている言葉です。これは「大きなことを話す」という意味の言葉です。パウロは罪のリストに「大言壮語する」ことをあげていますが(ローマ人への手紙1章30節)その様な罪の姿がここにあるのです。このようなことに対して作者はそうしたものの言葉を断ち切るようにと求めています。

12:4彼らはこう言うのです。「われらはこの舌で勝つことができる。われらのくちびるはわれらのものだ。だれが、われらの支配者なのか。」

 彼らは自分たちを誇りとし、自分たちが主であるこことを語ります。「だれが、われらの支配者なのか」と言うのです。ここで「支配者」と訳された言葉は、直訳すれば主という語です。ただこの主というのはヤハウェではなく、「アドン」という語です。これは現在でも日常会話でも使われるような言葉で、たとえばタクシーの運転手が乗り込んできたお客に「シャローム・アドニ」というのです。「いらっしゃい」ぐらいの言葉なのでしょうが、一般的には、雇い主に対して「ご主人」というような意味です。しかし彼らは主人として振る舞うところに、傲慢さが出ていると言えます。

 

2 主の約束

12:5主は仰せられる。「悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、今、わたしは立ち上がる。わたしは彼を、その求める救いに入れよう。」

 ここには私たちの生活の中の厳しい現実が記されています。それは強いものが勝ち、弱いものが負けると言う弱肉強食の世界です。ここで「悩む人」と訳された言葉は、「アニィー」と言う言葉ですが、これは貧しいとか、弱いという意味もあります。そして「踏みにじられる」と訳された言葉は、暴虐とか破壊という意味の言葉です。ですから弱い人々がと暴力によって痛めつけられる様が描かれているのです。また貧しい人が「嘆く」というのは、「悲鳴」とか「泣き叫ぶ」という意味の言葉であります。すなわちそこでもまた弱いものが痛めつけられている姿が描かれているわけです。すなわちいつもの二度繰り返すことによって強調される文学手法がここでも採られます。弱いものが徹底して痛めつけられる、強いものが勝ち誇っている姿が想像されるのです。

しかしそれだけではとどまりません。とそれまで勝ち誇っていた姿をひっくり返すかのように、「わたしは立ち上がる」と作者は語ります。それは「彼を助けるため」であります。そこには弱いものがうちひしがれている姿を赦しておけない姿が描かれるのです。そこに主の救いがあります。主は立ち上がって求める者に救いを提供されるのです。

この救いの中に入れるという表現は、「救いの中に置く」という言葉です。神様が苦しめる者、悩んでいる者、それゆえに神に救いを求めている者に対して、彼を安全な場所に導き入れて下さるのです。

12:6主のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。

 作者はここでみことばについて言及します。「混じりけのないことば」というのは「清い」「清潔な」という意味です。この清いという意味を別のことばで表現して「土の炉で七回も試されて」と表現しています。ここでは七という数字を文字通り受け止める必要は無いかも知れません。七という数字が間然すると言われるように、ここでは繰り返して精錬されるという意味で純粋なと言うことが大切です。純化された銀、という言い方が出てきます。ある時代には金よりも銀の方が値打ちがあったと言うことも言われています。ですから金か銀かと言うことにはあまり大きな意味はないでしょう。むしろ高価な金属がより純化されたと言うことから、神様のみことばも素晴らしさと言うことが強調されていると言えましょう。

12:7あなたが、主よ、彼らをお守りになります。あなたはこの時代からとこしえまでも彼らを保たれます。

 そしてこの節では神様の守りと言うことが強調されています。その守りは「この時代からとこしえまで」続くものです。神学用語を使えば「堅忍」と言うことでしょう。いま私たちに与えられた神様の救いは、私たちから決して奪い去られるものではないのです。とこしえにいたるまで神様が私たちを支えて下さいます。

12:8人の子の間で、卑しいことがあがめられているときには、悪者が、至る所で横行します。

 しかし私たちがこの世で生きていく時にはいつの時代であっても「悪者が、至る所で横行します」と語られているように正しいものを強いたげたり、弱いものを苦しめたりすることが必ず怒るようです。私たちの使命としてそうしたら現実が少しでもなくなり、出来るだけ多くの人々が神様の御前に平安な生活をすることが出来るようにと願っていくことが大切なのでしょう。

 

 

 

 

詩篇13篇

 

1節 「主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。」

 作者はここで、自分が試練、困難の中に置かれていることを物語っています。神様の存在を近くに感じ取ることが出来ていないのです。しかもそれがかなり長い時間に渡っていることをも知らされます。「いつまでですか」というのです。神が彼を忘れてしまった、隠れてしまっていつまで経っても顔を見せてくれないと言う状況がそこにはあります。試練や苦しみの中にある者にとっては、その一瞬一瞬が長い者に感じられます。従って実際の時間が長ければ、もう自分は神様から見捨てられてしまったのではないかと考えてしまうでしょう。そこには絶望しかないように思えてしまいます。しかし詩篇の作者はなお絶望しないのです。との霊は主に向かって祈るのです。

 

2節 いつまで私は自分のたましいのうちで思い計らなければならないのでしょう。私の心には、一日中、悲しみがあります。いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょう。

 作者は自分の気持ちを素直に言い表しています。「たましいのうちで思い計る」と語りますが、それは「たましいのうちで計画を定める」という意味ですが、端的に言えばいろいろと考え悩むことでしょう。彼は敵と呼ばれている者たちから馬鹿にされ、苦しめられているのです。「勝ちおごる」というのは「高ぶる、高慢になる」という意味です。その結果彼の心は「一日中、悲しみがあります」という状態に置かれているのです。

 「悲しみ」という語は「絶望、死別、後悔などから来る深い悲しみ」と言うことです。こうして辞書に載ることばで表すとなかなか伝わりにくいかも知れませんが、本当に癒されないような深い悲しみが彼を襲っていたのです。

 

3節 私に目を注ぎ、私に答えてください。私の神、主よ。私の目を輝かせてください。私が死の眠りにつかないように。

 彼は神様に必死になって訴えます。「わたしに目を注ぎ、私に答えてください」と言います。彼は神様を遠くに感じるような思いがあったのですが、なお神に祈り続けるのです。それは彼の思いの中で神様が近くにおられると言うことを知っている、あるいは分っているからではないでしょうか。だから神様に祈るのです。

 死にいくものの一つの特徴は「目の輝き」が失われていくことです。残念なことに目が力を失ってくることです。目に力があるか無いかは回復することが出来るかどうかの判断材料でしょう。そこで病気ではない場合には、目の輝きという者は生き甲斐、希望、勇気、やる気等という者につながることを表すと考えられます。

 

4節 また私の敵が、「おれは彼に勝った。」と言わないように。私がよろめいた、と言って私の仇が喜ばないように。

 敵が勝利すると言うことは、旧約の時代にあっては、敗者は敵の奴隷にされたり、いのちを奪われたりと言うことになります。しかも戦いに敗れると言うことは、その信じている神の負けと言うことにもつながります。ですから神様のためにもと言うことで必死になって戦うのです。その必死の戦いに敗れた場合の悲惨さは、現代に生きる私たちには想像もつかないような一面があったことでしよう。ですから、敵から「おれは彼に勝った」とか、「私がよろめいた」などということを言われるだけでも、戦いの中では大変不利になります。なぜなら、その様なうわさは寝返りを生んだり、あらたな敵を呼び起こすことになりかねないからです。

 「私の仇が喜ぶ」と言う時の「喜ぶ」と言うことは、大喜びとか、歓喜と言うことを意味しています。それは作者の「悲しみ」とは正反対の所にあるこころの状態を示していると言えるでしょう。そしてその様に考えること自体が、新たな苛立ち、憤りをも呼び覚ますのです。ですからその様にならないように、必死になって祈り求めるのです。

 

5節 私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。

 ところがこの5節に於いて作者は突然讃美を歌うのです。ここではある程度の時間の経過が考えられます。この5節、6節はヘブル語本文では同一の節になっています。ここでは主の恵みにまず焦点を与えます。この恵みと訳されたことばは「ヘセド」です。限りない無条件に与えられる主の慈しみを表す言葉です。彼が不安に怯え、希望を失っているような時に、ふと気づかされたのは主の慈しみのことです。そこで彼はもう一度主への信頼を取り戻すのです。

 それは彼の心に全くと言って良いほど失われてしまっていた「喜び」を取り戻させます。しかもその喜びというのは「救いの喜び」なのです。この「救い」ということばは「ヨシュア」であり、人の名前となった時、ギリシャ語では「イエス」となったことばであります。私たちキリスト者は苦しむ時、悩む時、いつもこの主イエスに心が向くならば、そこにイエス様がおられることを知ることが出来、喜びを得るのです。

 

6節 私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。

 そして喜びは歌になります。そこには主の御業があるからです。「主が私を豊かにあしらわれた」という告白は、主がどこかに隠れてしまったかのように、遠く離れておられると思っていたものが、主の御業にふれることが出来た喜びから生まれる歌を歌っているのです。

 

 

 

 

 

 

詩篇14篇

 

1節 愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。

 ここでダビデは「愚かな者」という言葉でこの詩を語り始めています。この言葉は「愚かな」という意味の他に、「無意識な」とか「非常識な」、「無分別な」というような意味を持っています。彼らは神様のことを本当は良く知らないと言うことが言えるのでしょう。だから安易に「神はいない」などと言うことを言うのです。なぜ彼らは、神はいないというのでしょうか。もちろん彼らの時代であれば、一般的な常識からすれば神はいると皆が考えていた時代であると言うことです。もちろん彼らは心の底からその様に考え、それをもとに行動していたかどうかは疑問の残るところです。ですから「神はいない」とするのはむしろ彼らの本質的な部分と言うことが出来るでしょう。

 実際彼らの行っていることは、「腐っており、忌まわしい事を行なっている」と言うことになります。この「腐っている」というのは、「破壊する」とか「堕落した」というような意味があります。彼らの行いが道徳的に見ても明らかに堕落した状態であったのです。「忌まわしい」というのは、「ひどい」とか「いみきらうべき」、「じつにいやな」というような意味です。見るに堪えないようなことが行われると言うことです。

そこから「善を行う者はいない」という結論に達するのです。この「善」というのは「良い、好ましい」というようなことですから、「忌まわしい」と言うこととは全く反対なことです。

 

2節 主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。

 一方神様はその様な私たちをご覧になっておられることが示されています。私たちは神様の目を意識しすぎて萎縮してしまうことは全く間違いであり、あってはならないこと、また神様ご自身が望んでおられないことであると思いますが、逆にその事が意識されなくなって、忌まわしいことを行うようになっていくことは全く困ったことになります。しかし、神様を見失っている現代社会は「忌まわしいこと」が行われているのでしょう。

 「神を尋ね求める者」は尋ねるとか「調べる」、「忠告を求める」などという意味があります。それは人生に対する真剣な態度を持っていることから生まれてくる姿勢と言うことが出来るのかも知れません。

 

3節 彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない。

 彼らは「離れていく」というのは、「脇へそれる」と言うことですから、いわば軌道をそれることであり、罪を犯すことを意味しているのでしょう。もっとも彼を中心にして考えれば、彼のもとを去っていったと言うことも考えられます。彼が孤独にされているがゆえに一層皆が離れていくことに焦燥感のような者を感じていたのかも知れません。

 「だれもかれも腐り果てている」という言葉は、「みな一緒に」という語と、「汚れる」という意味の語で表されています。この「みな一緒に」という語は口語訳では「みな等しく」と訳されています。「結合」というような意味を持っています。強い結びつきを意味しているようにも思えます。

 「腐り果てる」というのは道徳的に堕落したという意味です。彼らは汚染し、汚れ果てていたのです。この様なことは残念ながらいつの時代でもそうなのです。しかしその様な中で彼は必死になって神様に従おうとしていたのです。

 

4節 不法を行なう者らはだれも知らないのか。彼らはパンを食らうように、わたしの民を食らい、主を呼び求めようとはしない。

 「誰も知らないのか」という彼の言葉は、主を呼び求める者がだれもいないという絶望的な状態の中で嘆いているのです。彼にとって問題なのは、「不法を行う者」たちの行動です。「彼らはパンを食らうように、わたしの民を食らい」と言うことです。この「食らう」というのは「貪り食べる」という意味もあります。「わたしの民を食らい」というのは、彼らがイスラエルの民を「滅びるように仕向けている」と言うことです。

 彼らはイスラエルの民を道徳的な堕落に引きずり込み、滅びにむかわしめているのです。彼らは「神を尋ね求める事をしないばかりか、神から離れていき、腐り果て」滅びに向かっていくのです。その根本的な原因が「主を呼び求めることをしない」からにあるのです。私たちは主を呼び求める者でありたい、そうでなければ滅びに向かっていく者になってしまうことを良く知らなければならないのでしょう。

 

5節 見よ。彼らが、いかに恐れたかを。神は、正しい者の一族とともにおられるからだ。

 神に従い神との交わりをしないと言うことがどの様な結果をもたらすかについて真剣に考えてみなければならないように思います。「見よ」と訳された言葉は「その時」と訳している口語訳の方がいいのかも知れません。彼らは「恐れた」のです。ここでは恐れたことを強調するために二度「恐れる」という言葉が用いられています。

 恐れなければならない理由は「神は、正しい者の一族と共におられるから」です。ここでは一族と訳された言葉は、「世代」、「時代」というような意味です。この場合の正しい者というのが、行いが正しいのか、と言うことに対しては、理解が二つに分かれると思います。もちろん行いという面と、信仰による義と言うことが理解の仕方としてはあると言うことです。新約聖書的には信仰義認言うこともありますから、ここでは信仰によって義と認められると言う立場から言えるでしょう。

 

6節 おまえたちは、悩む者のはかりごとをはずかしめようとするだろう。しかし、主が彼の避け所である。

 「おまえたち」というのは「不法を行う者たち」と言うことであります。「悩む者」と訳された言葉は「弱い者」という意味の言葉です。不法を行う者は弱いものをしいたげ、はずかしめるのです。悪い者が強い立場に立ち弱い者を虐げるという現実が一方にあることを認めています。これは大変辛いことであります。

 「しかし、主が彼の避け所である」と言います。苦しい現実から逃げてしまうのではありませんが、主が私たちをその様な場から守って下さるのです。それはよく親鳥の翼の影に隠れる光景が描かれますが(ルツ記2章12節)、厳しい現実の中で神様の守りをいただくことができるのです。

 

7節 ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように。主が、とりこになった御民を返されるとき、ヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。

 「イスラエルの救いがシオンから来る」というときシオンというのはエルサレムの別の呼称と言うことです。その意味は「渇いた場所」という意味です。エルサレムはもともといくつかの高台の上に立てられた町で、そのいただきの中心的な一つが「シオン」と呼ばれていたところでした。そこからこの名はエルサレム全体をも指すようになり、救い主の預言と結びついて、救い主の現れる場とされるようになりました。

 「とりこになった御民を返される」と言うことが、バビロンからの帰還と捕らえる人々がいます。するとこの詩の作られた年代が紀元前6世紀頃になりますが、ダビデの作と考えればさらに古く紀元前10世紀の咲くと言うことになります。ただあえてバビロンからの帰還ととらえる必要もないでしょう。神を信じない者たちが、イスラエルの民を罪の世界の虜にしたのですが、主はそこから解放して下さるのです。

 

 

 

 

 

詩篇15篇

 

 

1節 主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。

 ここで神の住まいを「幕屋」と呼んでいます。幕屋というのは、「天幕」のことです。神様のおられるところです。神様のおられるところに住むと言うのは、神様とともにいると言うことです。私たちはいつでも神様と共にいたいと願うことは大変重要なことではないかと思いますが、ここでも詩篇の作者はその様に語っているのです。ただここでは旧約聖書の時代ですから、今私たちが言うような聖霊の内住というような意味では語られていません。ただ意識の中では同様なことが思われていると言えましょう。

 「聖なる山」というのは、別の言い方をすれば「シオン」という言い方が良くありますが、それと同様にエルサレムをさしていると考えても良いでしょう。そこは山の頂がいくつかある町で、神様の幕屋がそこに置かれていたのです。後にこの山にソロモンは神殿と自分の王宮を建てたのですが、荼毘だがここに神の幕屋を運んできてから、この山が聖なる山と呼ばれるようになりました。

 

 

2節 正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人。

 「正しく歩み」というのは、正義というような様な意味での言葉ではなく、ここで用いられているのは「タミム」という言葉ですから、「公平さ」というような意味の語です。次の「義」は「ツァデク」ですから、まさに正義という意味です。ですからここでは「正義と公平を行う」という意味です。

 「心の中の真実を語る」というとき、「こころ」と言うのは、人間の持っている理性、感情、意志のすべてを含んでいる者と理解できます。そしてその真実というのは「本当のこと」、そして「確実なこと」なのです。真実も、確かなことも神ご自身以外にはないとするならば、神様について、あるいはその御業について、そしてその御言葉について語ると言うことになるでしょう。

 

 

3節 その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行なわず、隣人への非難を口にしない。

 言葉において真実を語るのであれば、彼は舌を制することが出来るのです。しかしそれはヤコブが「しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。」(ヤコブの手紙3章8節)と語るように、制することが難しく、私たちが陥りやすい罪のわななのです。それだけに十分に注意しながら、せいかつしていかなければならないのです。「そしる」というのは「中傷」することを意味しています。「隣人への非難」というのは、隣人に対する「さげすみ、あざけり、しっせき」であり、「口にする」というのは、「持っていく」という意味の言葉が用いられています。それらは罪に走る積極的な姿勢のようなものを示しているように思えます。ですからその様にしないことが大切なのです。

 

 

4節    神に捨てられた人を、その目はさげすみ、主を恐れる者を尊ぶ。損になっても、

たてた誓いは変えない。

 

 作者は「神に捨てられた人を、その目はさげすみ」と語ります。神に捨てられた人というのは神様から「拒絶された」、すなわち「受け入れられない」と言うことであり、必然的に「滅んでいく人」のことです。そしてさげすむと言うのは「軽蔑する、嫌う」等という意味を持っています。新約聖書の時代との習慣の違いのような者を強く感じますが、どちらがよいか悪いかと言うことではなく、それが現実であると言うことでしょう。

 

 一方、「主を恐れる者」は「尊ばれる」のです。それは「敬意を表す」と言うことであり、「重んじられる」と言うことです。もちろん人間の表面的なことだけを見て、「主を恐れているかどうか」と言うことは簡単には判別できないかも知れません。しかしそれは絶えざる態度によって明らかにされるのです。「損になっても、たてた誓いは変えない」というような誠実さ、まじめな態度があることがその人の進行を表していると言うことでしょう。

 

 

5節 金を貸しても利息を取らず、罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない。このように行なう人は、決してゆるがされない。

 

 ここに掲げられた聖句は現代社会に対する皮肉であるかのようにも見えます。お金を貸せば利息を取るのが当然の社会システムが資本主義の一つの理念であるかのように思えます。しかし、そうしたことが高利貸し、ローン破産というような悲しい現実を生み出すまでに罪を蔓延させています。「罪を犯さない人にそむいて」という訳は大変分りにくいように思います。「無実の人を陥れたりしない」と共同訳は訳しています。この方が余程分りやすいのではないでしょうか。

 「このようなことを行う人は、決してゆるがされない」というのは、その生活の基盤がゆるぐようなことがないと言うことです。

 

 

 

 

 

 

詩篇16篇

 

 

1節 神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。

 「神よ。お守り下さい」と作者は語ります。「守る」と訳された言葉は「保つ、持っている、注意する」等というような意味があります。ですからこの言葉は「守る」というような意味の他には、「神様の見守りの中で彼が保たれるように」と言うことがあります。

 「あなたに身を避けます」というのですが、「身を避ける」と訳されたのは「避ける、身を避ける、信頼する、望みを置く」というような意味です。それは神様に対する絶対的な信頼をもって身を委ねているのです。

 

 

2節 私は、主に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」

 彼は主に対して自分の信仰の告白をします。彼にとって神様は主以外の何ものでもなったのです。「わたしの主」と言う時の「主」はアドナイです。この言葉は普通使用人が自分の主人に対して呼ぶ時の言葉ですから、極親しみを込めて「ご主人」と呼んでいるのです。彼にとって幸いというのは、物質的な豊かさなどではなく、主ご自身とともにいることの中に求めているのです。現代の日本人は物の豊かさの中に幸福があるかのように感じているところがあるように思いますが、実際は物の豊かさを追い求めていく時にはいくら豊かになっても満足できないものがあるように思います。

 

 

3節 地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。

 「地にある聖徒」というのは、現代という時点で考えれば、私たちキリスト者と言うことになると思いますが、当時ではイスラエルの民、信仰者と言うことになるでしょう。「威厳がある」と訳されたのは、秀でている、優秀なというような意味です。また「貴族」というような意味にもなりますし、「堂々としている」というような意味にもなります。神様の御心にしたがって生きるものにはこの世にあっては神のもつ威厳というようなものを示すことが出来るのです。それは、神ご自身の持つ聖さとか、義というものを私たちも持つのです。それは私たち自身のものではありませんから、謙遜でなければならない面がありますが、私たちは神様の使者として生きていくのです。

 「私の喜び」と言う時の私は、作者であるダビデと理解するのが一番ではないでしょうか。ダビデの喜びは聖徒たちの中に、彼らと共に生きるということが彼らの喜びであります。

 

 

4節 ほかの神へ走った者の痛みは増し加わりましょう。私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、その名を口に唱えません。

 イスラエルの歴史は絶えず偶像礼拝の危機との対決でありました。そしていつの時代でもイスラエルの民の中から偶像礼拝の中に墜ちていくものがありました。偶像礼拝する者のなかに神様の裁きが下るのは当然のことでしょう。

 ですから彼は自分が偶像礼拝するような者と共に、「血の酒を注ぐ」様なことはしないと告白するのです。礼拝においては、偶像礼拝者も、また真の神を礼拝をする者も、共に犠牲の動物の血を祭壇に注ぐのですが、その時偶像礼拝者たちは、その偶像の名を唱えるのでした。ですから彼は「その名を口に唱えません」と明言しているのです。

 

 

5節 主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。

 「ゆずりの地所」というのは先祖に約束として分け与えられた地のことをさしています。すなわちそれは彼に対する神様からの約束であり、祝福そのものであります。ですから、「私への杯」と語ります。それは私たちが受ける霊的な祝福を意味していると間がる事が出来ます。

 「私の受ける分を、堅く保って下さいます」と語られる時、主の守りの確かさがここにはうったえられているのです。

 

 

6節 測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。

 「測り綱」というのは、地所の大きさを決める時の規準になる長さです。地所をはかる時には必ず測り綱ではかるのです。「私の好むところに落ちた」というのは、少し分りにくいような気がします。共同訳聖書は「測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。」と訳しています。言葉としてはいささか違約に過ぎるように思いますが、理解をするのにはよほど分りやすい訳のように思います。神様が彼に対して本当にすばらしい祝福を与えて下さったことに対する彼の感謝の意味があふれているように思います。

 

 

7節 私は助言を下さった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。

 彼は続けて主の導きについて語るのです。ここでも共同訳が分りやすいように思いますので、そこを引用しますと、「わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。」と訳しているのです。

 

 

8節 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。

 彼は自分の信仰生活を整えていくことを考え、「わたしの前に主を置いた」というのです。彼は主と共に進んで行くことが彼の生き方の基本です。主が彼とともに歩んで下さると言うことは、彼の素晴らしい生き方ではないかと思います。そしてそれゆえに、「私はゆるぐことがない」というのです。彼の生活に問題が起こらないというのではありません。問題はだれにでも次々と起こってくるのです。しかしどの様な問題が起こっても、「ゆるがされることがない」のです。

 

 

9節 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。

 揺るぎのない信仰を与えられたゆえに作者は「心が喜びに満たされ」るのです。この喜びはまさに歓喜と呼ばれるような心からの喜びです。かつてイエス様がエルサレムに入城する時に、人々は歓喜して迎えたのですが、その様な歓喜を与えられることを語っているのです。

 喜びと共にその身も「安らかに住まう」と言うことは、身も心も「安全に」住むことが出来るのです。この安全と言う事は、「平安がある」ということでしょう。

 

 

10節 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。

 主が彼の霊を「よみに捨て置かず」と言われます。「よみ」というのは、地の下にある世界、死後の世界を意味していると言えましょう。すなわち私たちは死からのよみがえりをも示唆していると言うことが出来るのではないでしょうか。それゆえにかれはより積極的に「墓の穴をお見せにはなりません」と語るのです。そこには彼の復活信仰を見ることができる思いもします。

 

 

11節 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

 その様に彼は復活の信仰をもっていますので、「いのちの道を知らせて下さいます」と確信をもって言う事が出来るのです。彼はすでにここで不死の信仰を告白していると言えるでしょう。そして今の世界にあっても、喜びと楽しみがそこにはあります。それはこの世の人々の喜びや楽しみとは違うかも知れませんが、天の御国からくる喜びと楽しみであります。

 

 

 

 

 

詩篇17篇

 

 

1節 主よ。聞いてください、正しい訴えを。耳に留めてください、私の叫びを。耳に入れてください、欺きのくちびるからでない私の祈りを。

 この詩篇の標題は「ダビデの祈り」となっています。詩篇はそれぞれが祈りなり、神への告白と言えるのでしょうが、あえて「祈り」を強調しています。

 作者は「正しい訴えを聞いて下さい」というのです。この正しいというのは「ツェデク」という言葉が用いられていますから、正しいよりも「義」そのものを意味していると言えましょう。それだけ作者の願いと主張の強さが表れています。

 ここでも同じ意味内容を繰り返す修辞法が用いられていて、その意味を強めています。「耳に留めて下さい。私の叫びを」と語られます。この「叫ぶ」という語は寺院の鐘が鳴り響くように大きな叫びなのです。彼は彼の祈りが聞かれることを切に求めるのです。彼はさらに「欺きのくちびるからでない私の祈り」という言い方をして、自分の祈りが真実な者、うそ、偽りを含んでいない者であることを語ります。

 彼はこのように三回も重ねて祈りが聞かれることを願い求めているのです。このような強い求めを私たちはしたことがあるでしょうか。

 

 

2節 私のためのさばきが御前から出て、公正に御目が注がれますように。

 彼は正しいさばきを求めます。この事は彼に何らかの批判がなされたり、敵対者たちの存在、そして彼らの誹謗中傷の様な者があったであろうことが推測されるのです。彼は決して自分にとって有利なさばきがなされることを望んではいないのです。そうではなく、厚生が大切にされるさばきが下されることを望むのです。

 

 

3節 あなたは私の心を調べ、夜、私を問いただされました。あなたは私をためされましたが、何も見つけ出されません。私は、口のあやまちをしまいと心がけました。

 彼がそのように自信をもつことが出来るのも、彼をすでに神様が調べて、何も見つけ出されなかったという自信があるからです。神様は時に私たちを調べられるのです。それを「試み」という表現を用いて私たちは恐れてしまいます。「私たちを試みに会わせないで、悪からお救い下さい」と祈るように教えられていますし、私たちはそう祈らざるを得ないのですが、彼は試練に会い、神様からすでに試されたのです。「何も見つけ出されません」と彼が言う時、彼には罪が全くなかったと言うことではないでしょう。彼が今攻撃されている件について、彼に問題がなかったと言うことを意味しているのだと思えます。

 彼は自分でも具体的な罪を犯すことがないように、「口のあやまちをしまいと心がけた」と語ります。その様な意味で、彼は細心の注意を払っているのです。

 

 

4節 人としての行ないについては、あなたのくちびるのことばによりました。私は無法な者の道を避けました。

 彼は自分の行動について、「あなたのくちびるのことばによりました。」と語ります。すなわち、御言葉に従ったことを語っています。神様の御心に沿って生きていくためには、御言葉に従う以外にはないのです。彼は意識していたのでしょうか、「無法なものの道を避けた」と語ります。「無法な」というのは、強盗とか人殺しという意味も持っていますから、かなり凶悪な犯罪者と言うことになります。そんなことならば簡単だ等と思わないで下さい。何しろイエス様の基準では、「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイの福音書5章22節)なのですから。

 

 

5節 私の歩みは、あなたの道を堅く守り、私の足はよろけませんでした。

 彼は「私の歩みは、あなたの道を堅く守り」と語ります。この「堅く守り」というのは、ぎゅっと掴んで放さない様を現しています。彼がいかにしっかりと神様の導きに従っていこうとしているかを示しているのです。私たちの信仰は神様の守りの中にあるものです。そのいみではネガティブな物かも知れません。でも私たち自身の中ではより積極的であり得ますし、そうでなければならないのでしょう。

 「よろめく」という言葉は、揺らぐとか滑る、移るというような意味を持っています。神様に従っていくならば、迷ったり、滑ったり、よろめいたりすることなく、しっかりとした歩みで、前進していくことが出来るのです。

 

 

6節 神よ。私はあなたを呼び求めました。あなたは私に答えてくださるからです。耳を傾けて、私の申し上げることを聞いてください。

 彼は神様が彼の祈りに答えて下さるお方であることを良く知っています。だから彼は神様に呼びかけるのです。そして彼は「私に答えて下さる」と言うのです。答えて下さるお方だから聴いて欲しいと思うのです。「耳を傾けて」とかれは語ります。最近「傾聴」という言葉が良く用いられるようになりました。真剣に聞くことであります。神様は私たちの祈りに一生懸命耳を傾けて下さるのです。

 

 

7節 あなたの奇しい恵みをお示しください。立ち向かう者から身を避けて右の手に来る者を救う方。

 彼は神様の恵みについて語ります。「あなたの奇しい恵み」と語っています。この奇しいというのは、神様の特別素晴らしいという意味でしょう。基本的な意味としては「奇しい、区別された」というような意味です。「恵み」と訳された言葉は「ヘセド」です。以前にも説明したかと思いますが、神様の私たちに対する善意、誠実さ、いつくしみ等を意味する言葉です。

 「右の手にくるもの」というのは、神様を信じて救って下さるであろうことの信仰を持っていると言うことです。あくまでも神様に対する信頼を作者は失っていないのです。

 

 

8節 私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。

 彼はその信頼を主に向け、それゆえに神様の見守りを期待しています。ここではくどくなるからでしょうか、目という意味の言葉と、瞳という言葉がさらに加わっています。ですからあなたの瞳、目の瞳のように見守りと言うようになるのかも知れませんが、日本語としてはその様な訳はくどすぎるからでしょう。口語訳も、共同訳も同じように訳しています。おもしろいのは英語のNKJV訳で、Keep me as the apple of Your eye; Hide me under the shadow of Your wings,と訳しています、appleと言うのは、日本語で言う「目に入れても痛くない」というようなとき飲めに相当する言葉で、何よりも大切な物との意味です。原文の意味をもっともいかしているように思います。

 「御翼の影に私をかくまってください」は親鳥が子供をその羽の下にかくして敵や、寒さや、雨などから守るように、神様の守りを期待しているのです。

 

 

9節 私を襲う悪者から。私を取り巻く貪欲な敵から。

 ここでは神様の守りと言うことをさらに具体的に語ります。「私を襲う悪者」という表現が用いられています。悪者というのは「悪意のあるもの」と言うことで、彼に敵対している者から彼を守ってくださいというのです。その敵は彼の前にいるのです。NKJV訳ではoppress虐げと言うような言葉を用いています。

 彼の敵は「貪欲な」のです。しかもその敵が彼を包囲しているのです。すなわち彼のたましいが激しく攻撃され、逃げ場を失っているかのような、追い込まれた状況に置かれているのです。

 

 

10節 彼らは、鈍い心を堅く閉ざし、その口をもって高慢に語ります。

 彼等の心は「鈍い」ということは肥え太っているのです。そして他の人に対して閉ざされているのです。すなわち忠告など受け入れよう、耳を傾けようなどとはしなくなっているのです。

 ですから彼らは「高慢に語る」のです。彼等の心はへりくだると言うことをしないのです。心が肥え太って鈍くなると、忠告に耳を傾けなくなりますから、高慢になる、そしてますます肥え太っていくという悪循環に陥っていきます。すると、救い難いような姿になっていくのです。

 

 

11節 彼らは、あとをつけて来て、今、私たちを取り囲みました。彼らは目をすえて、私たちを地に投げ倒そうとしています。

 ここで標題とは違う状況が描かれています。「アッシリア人たちが」と訳せる言葉が語られているからです。するとダビデの時代よりももっと後のことになる可能性が強いと言えましょう。ここでは包囲すると言う言葉が繰り返されています。彼らの力は十重二十重とかりを取り囲んでいることになります。

 彼らの焦点はしっかりと彼に注がれて、逃げることが出来ないのです。それは彼を「地に投げ倒す」ためであることは言うまでもありません。それは決定的な勝利をあげることを意味しています。

 

 

12節 彼は、あたかも、引き裂こうとねらっている獅子、待ち伏せしている若い獅子のようです。

 作者は敵をその圧倒的な力のゆえにライオンに例えました。ライオンの前にはすべての者が引き裂かれてしまうでしょう。彼らは圧倒的な力をもっているのです。しかしそれだからと言って、負けてしまっては栄光を現すことはできないのです。

 

 

13節 主よ。立ち上がってください。彼に立ち向かい、彼を打ちのめしてください。あなたの剣で、悪者から私のたましいを助け出してください。

 彼は「主よ。立ち上がってください。」と懇願します。「立ち上がる」というのは、「行動を開始する」と言うことです。そうすることによって彼らを「打ちのめしてください」と祈ります。打ちのめすという言葉は「身をかがめる」とか、「屈伏する」というような意味の言葉ですから、いわば「完全勝利」を意味していると考えられます。それはとりもなおさず、彼のたましいが救われることであったのです。

 

 

14節 主よ。人々から、あなたの御手で。相続分がこの世のいのちであるこの世の人々から。彼らの腹は、あなたの宝で満たされ、彼らは、子どもらに満ち足り、その豊かさを、その幼子らに残します。

 

 14節の新改訳聖書の訳は何か分りにくいような気がします。「主に何をして欲しい」と願っているのでしょうか。それは彼らの敵たちがこの世的に豊かになり、相続分をいっぱいとって、満ち足りているように思えるから、それを彼らから奪い取って欲しいという願いなのです。そこで共同訳聖書は「主よ、御手をもって彼らを絶ち、この世から絶ち/命ある者の中から彼らの分を絶ってください。しかし、御もとに隠れる人には/豊かに食べ物をお与えください。子らも食べて飽き、子孫にも豊かに残すように。」と訳して分りやすくしています。

 

 

15節 しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。 

 彼は義によってあなたを仰ぎ見ると言います。そこで新改訳聖書では「正しい訴えで、御顔を仰ぎ見」と訳しました。共同訳は「正しさを認められて」とそのところを訳しています。そして朝目覚める時にも、主ご自身と共にあることに満足するというのです。彼の満足心はあくまでも信仰的姿勢によって貫かれているのです。このように詩篇の作者は彼の敵である人々と自分を対比させながら、主にたよっている者としてあかししているのです。

 

 

 

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