詩篇17篇
1節 主よ。聞いてください、正しい訴えを。耳に留めてください、私の叫びを。耳に入れてください、欺きのくちびるからでない私の祈りを。
この詩篇の標題は「ダビデの祈り」となっています。詩篇はそれぞれが祈りなり、神への告白と言えるのでしょうが、あえて「祈り」を強調しています。
作者は「正しい訴えを聞いて下さい」というのです。この正しいというのは「ツェデク」という言葉が用いられていますから、正しいよりも「義」そのものを意味していると言えましょう。それだけ作者の願いと主張の強さが表れています。
ここでも同じ意味内容を繰り返す修辞法が用いられていて、その意味を強めています。「耳に留めて下さい。私の叫びを」と語られます。この「叫ぶ」という語は寺院の鐘が鳴り響くように大きな叫びなのです。彼は彼の祈りが聞かれることを切に求めるのです。彼はさらに「欺きのくちびるからでない私の祈り」という言い方をして、自分の祈りが真実な者、うそ、偽りを含んでいない者であることを語ります。
彼はこのように三回も重ねて祈りが聞かれることを願い求めているのです。このような強い求めを私たちはしたことがあるでしょうか。
2節 私のためのさばきが御前から出て、公正に御目が注がれますように。
彼は正しいさばきを求めます。この事は彼に何らかの批判がなされたり、敵対者たちの存在、そして彼らの誹謗中傷の様な者があったであろうことが推測されるのです。彼は決して自分にとって有利なさばきがなされることを望んではいないのです。そうではなく、厚生が大切にされるさばきが下されることを望むのです。
3節 あなたは私の心を調べ、夜、私を問いただされました。あなたは私をためされましたが、何も見つけ出されません。私は、口のあやまちをしまいと心がけました。
彼がそのように自信をもつことが出来るのも、彼をすでに神様が調べて、何も見つけ出されなかったという自信があるからです。神様は時に私たちを調べられるのです。それを「試み」という表現を用いて私たちは恐れてしまいます。「私たちを試みに会わせないで、悪からお救い下さい」と祈るように教えられていますし、私たちはそう祈らざるを得ないのですが、彼は試練に会い、神様からすでに試されたのです。「何も見つけ出されません」と彼が言う時、彼には罪が全くなかったと言うことではないでしょう。彼が今攻撃されている件について、彼に問題がなかったと言うことを意味しているのだと思えます。
彼は自分でも具体的な罪を犯すことがないように、「口のあやまちをしまいと心がけた」と語ります。その様な意味で、彼は細心の注意を払っているのです。
4節 人としての行ないについては、あなたのくちびるのことばによりました。私は無法な者の道を避けました。
彼は自分の行動について、「あなたのくちびるのことばによりました。」と語ります。すなわち、御言葉に従ったことを語っています。神様の御心に沿って生きていくためには、御言葉に従う以外にはないのです。彼は意識していたのでしょうか、「無法なものの道を避けた」と語ります。「無法な」というのは、強盗とか人殺しという意味も持っていますから、かなり凶悪な犯罪者と言うことになります。そんなことならば簡単だ等と思わないで下さい。何しろイエス様の基準では、「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイの福音書5章22節)なのですから。
5節 私の歩みは、あなたの道を堅く守り、私の足はよろけませんでした。
彼は「私の歩みは、あなたの道を堅く守り」と語ります。この「堅く守り」というのは、ぎゅっと掴んで放さない様を現しています。彼がいかにしっかりと神様の導きに従っていこうとしているかを示しているのです。私たちの信仰は神様の守りの中にあるものです。そのいみではネガティブな物かも知れません。でも私たち自身の中ではより積極的であり得ますし、そうでなければならないのでしょう。
「よろめく」という言葉は、揺らぐとか滑る、移るというような意味を持っています。神様に従っていくならば、迷ったり、滑ったり、よろめいたりすることなく、しっかりとした歩みで、前進していくことが出来るのです。
6節
神よ。私はあなたを呼び求めました。あなたは私に答えてくださるからです。耳を傾けて、私の申し上げることを聞いてください。
彼は神様が彼の祈りに答えて下さるお方であることを良く知っています。だから彼は神様に呼びかけるのです。そして彼は「私に答えて下さる」と言うのです。答えて下さるお方だから聴いて欲しいと思うのです。「耳を傾けて」とかれは語ります。最近「傾聴」という言葉が良く用いられるようになりました。真剣に聞くことであります。神様は私たちの祈りに一生懸命耳を傾けて下さるのです。
7節 あなたの奇しい恵みをお示しください。立ち向かう者から身を避けて右の手に来る者を救う方。
彼は神様の恵みについて語ります。「あなたの奇しい恵み」と語っています。この奇しいというのは、神様の特別素晴らしいという意味でしょう。基本的な意味としては「奇しい、区別された」というような意味です。「恵み」と訳された言葉は「ヘセド」です。以前にも説明したかと思いますが、神様の私たちに対する善意、誠実さ、いつくしみ等を意味する言葉です。
「右の手にくるもの」というのは、神様を信じて救って下さるであろうことの信仰を持っていると言うことです。あくまでも神様に対する信頼を作者は失っていないのです。
8節 私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。
彼はその信頼を主に向け、それゆえに神様の見守りを期待しています。ここではくどくなるからでしょうか、目という意味の言葉と、瞳という言葉がさらに加わっています。ですからあなたの瞳、目の瞳のように見守りと言うようになるのかも知れませんが、日本語としてはその様な訳はくどすぎるからでしょう。口語訳も、共同訳も同じように訳しています。おもしろいのは英語のNKJV訳で、Keep
me as the apple of Your eye; Hide me under the shadow of Your wings,と訳しています、appleと言うのは、日本語で言う「目に入れても痛くない」というようなとき飲めに相当する言葉で、何よりも大切な物との意味です。原文の意味をもっともいかしているように思います。
「御翼の影に私をかくまってください」は親鳥が子供をその羽の下にかくして敵や、寒さや、雨などから守るように、神様の守りを期待しているのです。
9節 私を襲う悪者から。私を取り巻く貪欲な敵から。
ここでは神様の守りと言うことをさらに具体的に語ります。「私を襲う悪者」という表現が用いられています。悪者というのは「悪意のあるもの」と言うことで、彼に敵対している者から彼を守ってくださいというのです。その敵は彼の前にいるのです。NKJV訳ではoppress虐げと言うような言葉を用いています。
彼の敵は「貪欲な」のです。しかもその敵が彼を包囲しているのです。すなわち彼のたましいが激しく攻撃され、逃げ場を失っているかのような、追い込まれた状況に置かれているのです。
10節 彼らは、鈍い心を堅く閉ざし、その口をもって高慢に語ります。
彼等の心は「鈍い」ということは肥え太っているのです。そして他の人に対して閉ざされているのです。すなわち忠告など受け入れよう、耳を傾けようなどとはしなくなっているのです。
ですから彼らは「高慢に語る」のです。彼等の心はへりくだると言うことをしないのです。心が肥え太って鈍くなると、忠告に耳を傾けなくなりますから、高慢になる、そしてますます肥え太っていくという悪循環に陥っていきます。すると、救い難いような姿になっていくのです。
11節 彼らは、あとをつけて来て、今、私たちを取り囲みました。彼らは目をすえて、私たちを地に投げ倒そうとしています。
ここで標題とは違う状況が描かれています。「アッシリア人たちが」と訳せる言葉が語られているからです。するとダビデの時代よりももっと後のことになる可能性が強いと言えましょう。ここでは包囲すると言う言葉が繰り返されています。彼らの力は十重二十重とかりを取り囲んでいることになります。
彼らの焦点はしっかりと彼に注がれて、逃げることが出来ないのです。それは彼を「地に投げ倒す」ためであることは言うまでもありません。それは決定的な勝利をあげることを意味しています。
12節 彼は、あたかも、引き裂こうとねらっている獅子、待ち伏せしている若い獅子のようです。
作者は敵をその圧倒的な力のゆえにライオンに例えました。ライオンの前にはすべての者が引き裂かれてしまうでしょう。彼らは圧倒的な力をもっているのです。しかしそれだからと言って、負けてしまっては栄光を現すことはできないのです。
13節 主よ。立ち上がってください。彼に立ち向かい、彼を打ちのめしてください。あなたの剣で、悪者から私のたましいを助け出してください。
彼は「主よ。立ち上がってください。」と懇願します。「立ち上がる」というのは、「行動を開始する」と言うことです。そうすることによって彼らを「打ちのめしてください」と祈ります。打ちのめすという言葉は「身をかがめる」とか、「屈伏する」というような意味の言葉ですから、いわば「完全勝利」を意味していると考えられます。それはとりもなおさず、彼のたましいが救われることであったのです。
14節 主よ。人々から、あなたの御手で。相続分がこの世のいのちであるこの世の人々から。彼らの腹は、あなたの宝で満たされ、彼らは、子どもらに満ち足り、その豊かさを、その幼子らに残します。
14節の新改訳聖書の訳は何か分りにくいような気がします。「主に何をして欲しい」と願っているのでしょうか。それは彼らの敵たちがこの世的に豊かになり、相続分をいっぱいとって、満ち足りているように思えるから、それを彼らから奪い取って欲しいという願いなのです。そこで共同訳聖書は「主よ、御手をもって彼らを絶ち、この世から絶ち/命ある者の中から彼らの分を絶ってください。しかし、御もとに隠れる人には/豊かに食べ物をお与えください。子らも食べて飽き、子孫にも豊かに残すように。」と訳して分りやすくしています。
15節 しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。
彼は義によってあなたを仰ぎ見ると言います。そこで新改訳聖書では「正しい訴えで、御顔を仰ぎ見」と訳しました。共同訳は「正しさを認められて」とそのところを訳しています。そして朝目覚める時にも、主ご自身と共にあることに満足するというのです。彼の満足心はあくまでも信仰的姿勢によって貫かれているのです。このように詩篇の作者は彼の敵である人々と自分を対比させながら、主にたよっている者としてあかししているのです。
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