温かな心通い合うキリスト教会が心の癒しを提供

埼玉県日高市 日本長老教会 高麗川キリスト教教会

温かな心通い合うキリスト教会が心の癒しを提供 

 

 

 

詩篇18篇

 

 

 この詩篇の標題は、ダビデがサウロの追求から守られた時、またその他の敵から救われた時に主にささげた感謝の歌であり、人生の中での喜びの歌であると言えましょう。

 

1  賛美(1~3)

 

1節 彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。

 私は「あなたを慕います。」と言います。慕いますと言う言葉は「深く愛する」という意味です。神様に対する彼の思いがあふれています。また「わが力」と言う言葉は「力強さ」をあらわしています。敵から守られた彼には、主の御力は本当に頼りがいのあるものであったに違いありません。

 

2節 主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。

 甲斐の武田信玄は「人は城、人は石垣、人は堀」と言ったそうですが、彼は人を信頼することの大切さをその様に語りました。しかしダビデは、神を信頼する言葉を「わが巌を、わが救い、わが救いの岩、わが盾、わが救いの角、わがやぐら」と言葉をつくして言い表しています。

 

3節 ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。

 主は「ほめたたえられる方」と語られます。この言葉は「ハレルヤ」という言葉の語源の言葉で、光り輝く、誇る、ほめたたえる、それらの言葉とは全く違って、愚か者にするとか、愚かに振る舞うというような意味もあります。ここでは主に対する讃美ですから、ほめたたえるという言葉が一番ふさわしいでしよう。

 その主が彼の祈りに確かに答えて下さるのです。この救われると言う言葉は「ヤシャー」という言葉ですが、「ヨシュア」という名前のもとになった言葉ですし、「イエス」の名のもとであります。確かに私たちの主は私たちの救いであります。ここでは敵からダビデを救いだすものとして書かれますが、私たちにとっては罪からの救い主であります。

 

 

2 王の苦しみ(4~6)

 

4節 死の綱は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。

 「死の綱は私を取り巻き」という言葉は、「綱」というのは彼に与えられた苦しみや困難を意味すると言えるでしょう。取り巻きというのは「取り囲む」というような意味です。それは城を包囲する軍隊の群れのように、敵が自分を包囲して、いわば落城寸前の彼に思えるのですが、しかし神がそこから彼を解放していただけるのです。

 「滅びの川」というのは、雨の少ないイスラエルで、雨期に一度雨が降ると、激流になって流れる川があります。その様な流れを表す言葉で、私たちに死をもたらすような困難を表していると言えましょう。その様な時に彼の心は、「恐れさせる」という言葉ですが、悪のちからの圧倒的な強さを思わさせられます。

 

5節 よみの綱は私を取り囲み、死のわなは私に立ち向かった。

 ここでは4節の意味内容を繰り返していると考えられます。よみというのはヘブル語でシェオルで、二度と戻ることのできない場所といういみで用いられています。ここには始祖のものの危険が強く意識されています。このままでは敵の手に落ちて死んでしまうという危機感です。彼はまさに死に立ち向かわなければならないという意識をもたされたのです。

 

6節 私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。

 その時彼がしたことは敵前に出て行って戦うことではありませんでした。静かな神の御前に進み出て、祈ることだったのです。「呼び求め」、「叫んだ」のです。その時彼が得た答は、「私の声を聞かれ」、「私の叫びは、御耳に届いた」と言うことです。彼は祈ることを通して、神様が確かに彼の祈りを聞いて下さったことの確信をもったのです。

 

 

3 主の顕現(7~15)

 

7節 すると、地はゆるぎ、動いた。また、山々の基も震え、揺れた。主がお怒りになったのだ。

 ここい゛は敵に対する主の御怒りが示されています。それは一言で言えば地震が起こったと言うことのようです。日本も地震国ですから、地震のこわさは多かれ少なかれ体験していると思いますが、イスラエルも同様なのです。あのアブラハムの時のソドムとゴモラの滅亡も、この地震の大規模なものが原因ではないかと考える多くの人々がいます。

 

8節 煙は鼻から立ち上り、その口から出る火はむさぼり食い、炭火は主から燃え上がった。

 作者は突然のように神様のさばきのわざを擬人的に現します。煙が鼻から立ち上がりというのは、火山が火口から噴煙を上げている光景が浮かびます。そして「その口から出る火」というのもまさに噴火している火山そのものの姿と言えましょう。

 

9節 主は、天を押し曲げて降りて来られた。暗やみをその足の下にして。

 「天を押し曲げて」という表現は「一部分を傾けて」というような意味なのですが、いずれにしても神様がこの地に対して御自分の御心を実現するために行動を取られたことを意味しています。「降りてくる」という表現は、まさに主イエス様がこの地に下られたと言うことを私たちに連想させるような御言葉であります。もっとも主の来臨は救いを実現するためでしたが、ここでは神のさばきを実行するためです。その意味では、主の再臨の時にも似ているのでしょうか。

 

10節 主は、ケルブに乗って飛び、風の翼に乗って飛びかけられた。

 ケルブというのは複数形になるとケルビムです。このケルビムで有名なのは、「こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」(創世記3章24節)でありましょう。聖書の中に出てくる有翼獣で具体的にどの様な姿をしているのかわかりません。ケルビムは布で作る場合は青、紫、緋色が用いられ、また金の板で打ち出したものも造られたようです。

 そうした有翼の獣に乗って飛び回る姿を通して、主の素早く自由な行動を示していると考えられます。

 

11節 主はやみを隠れ家として、回りに置かれた。その仮庵は雨雲の暗やみ、濃い雲。

 「やみを隠れ家として、回りに置く」と言うことは、その存在が目に見えない、まさに私たちから見えない存在であると言うことです。「その仮庵は雨雲の暗やみ、濃い雲。」という表現も、同じ内容を別の言葉で語ることを通して強調しているのです。ですからその事実を知らない者は、「心の中で神はいない」(詩篇10篇4節)と言うのです。

 

12節 御前の輝きから、密雲を突き抜けて来たもの。それは雹と火の炭。

 神様の御栄光は輝くばかりです。しかし神様を知らない者の中では前述のように密雲に覆われて何一つわかりません。そうしたくもの中から、いきなり雹が降ってくるのです。雹というのは、イスラエルの自然災害の中でも恐ろしいものの一つです。天から雹が降ってくると、農作物が甚大な被害を受けるのです。「火の炭火」というのが何かは明確ではないにしても、吹き出したばかりの火山岩のようなものが考えられていたかもしれません。いずれにしても考えられているのは神様の厳しい裁きなのです。

 

13節 主は天に雷鳴を響かせ、いと高き方は御声を発せられた。雹、そして、火の炭。

 「雷鳴」それは神様の存在と怒りを表す表現として用いられています。雷の大きなとどろきは、確かに神の御声を表現するものとしてはふさわしいような気がします。「雷鳴と稲妻と地震」これが神の怒りの表現を示す言葉として出てきます(ヨハネの黙示録8章5節)。

 

14節 主は、矢を放って彼らを散らし、すさまじいいなずまで彼らをかき乱された。

 主のさばきは、圧倒的に有利な敵をもものともせずに、彼らに対して矢を放つのです。この飛び道具の威力は「彼らを散らす」ほどのものでした。そこには敵の逃げまどう姿があります。稲妻は文字通り雷に伴う閃光です。それは同時に速さをも表します。一瞬にしてひらめく光のように、神の御業は悪人たちに対してなされるのです。

 

15節 こうして、水の底が現われ、地の基があらわにされた。主よ。あなたのとがめ、あなたの鼻の荒いいぶきで。

 これは水のそこが表れると言うことは神様の御業のすさまじさを表すものではないでしょうか。かつてイスラエルの民は出エジプトの時に、海の水が渇くことと、ヨルダン川を渡る時に、その流れがせき止められて、川底が表れて、そこを渡るという体験をしました。それはイスラエルの救いのためになされたわざでありましたが、別の角度から見れば、悪者どもを滅ぼすための神ご自身のさばきのわざでもあったのです。

 

 

4 王の救い(16~19)

 

16節 主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕え、私を大水から引き上げられた。

 ここには、上に語られたことと全く逆の神の差は気が語られます。大水です。それは私たちにあのノアの洪水を思わせます。

 

17節 主は私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。彼らは私より強かったから。

 私たちの敵は、私たちに対して圧倒的に有利で強いのです。でも私たちはその敵を恐れることはありません。私たちの主が勝利をもたらしてくれるのです。

 

18節 彼らは私のわざわいの日に私に立ち向かった。だが、主は私のささえであった。

 私のわざわいの日というのは、何か自分にとって都合の悪いような時と言うことでしょう。健康が優れないような時、何かの問題にぶつかって行き詰まっているような時、そう言うような時には、敵にとってはチャンスそのものです。しかしその様な時にも私たちは陥れられるようなことはないのです。主は私たちの支えなのです。ここで支えと訳された言葉は、英語ではサポート、スタッフです。私たちのために助けてとなって働いてくださる主がおられるのです。

 

19節 主は私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。

 広いところは、行き詰まった世界が狭い空間であると言えましょう。そこから解放されて広々とした世界に導かれることを表します。そこには救いだされた喜びが表現されるのです。行き詰まった世界はないのです。

 

 

5 神に喜ばれる生き方(20~30)

 

20節 主は私の義にしたがって私に報い、私の手のきよさにしたがって私に償いをされた。

 私の義というのは、彼に罪が全くないと言うことではないでしょう。しかし彼はいつも神様に受け入れられているのです。それは彼が神様を信じ、それに従っているということへの人間的な確信があるからです。それゆえに彼は神様から報いをいただくことができると信じているのです。「報いる」と訳された言葉は、扱ってくださると言うことです。またあとの「償いをされる」と訳された言葉は「報いる」とか「納める」という言葉です。

 

21節 私は主の道を守り、私の神に対して悪を行なわなかった。

 彼は自分の行いについて、「道を守り」、「悪を行わない」と言います。神学的に考えれば、皆罪人であり、罪を犯すのです。しかし、ここでは彼の心情を表しているのです。彼はそれほどまでに主に従ったのだと言っているのです。

 

22節 主のすべてのさばきは私の前にあり、主のおきてを私は遠ざけなかった。

 彼がそれほどまでに主張することができた正しさは、彼が主の御前から離れようとはしなかったということです。もちろん彼にも失敗はあり、罪を犯したこともあるでしょう。しかし彼は主の御前から離れることなく、主の御前に素直にで、主の決定に素直に従ったのです。

 

23節 私は主の前に全く、私の罪から身を守る。5>

 彼はそれゆえに「全く」といいます。「完全である」というのは、彼が神学的に罪がないというようなことではなく、主の赦しをいただいているのです。そして彼のその姿勢ゆえに、罪からも守られるのです。

 

24節 主は、私の義にしたがって、また、御目の前の私の手のきよさにしたがって私に償いをされた。

 彼は「私の義」という言い方をします。もちろん彼に罪がないというのではありません。前節で説明した通りです。ただ彼がここで言うのは、意識的には主に従い、精一杯主に仕えてきたと語っているのです。そして主もそうした彼の姿勢を評価して下さっているのです。ここで「償う」というのは、まさに手のわざにしたがって戻して下さる、すなわち報償ということなのです。

 

25節 あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、

 「恵み深い者」と訳された言葉はもともと聖徒という意味の言葉です。その他には「敬虔な」とか「親切な」というような意味があります。ただここでは主ご自身の御性質から「恵み深い」とか「慈しみ深い」という役を当てたのでしょう。ここでも十分言葉の繰り返しの遊びのようなことを作者はしています。

 

26節 きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。

ここで言うきよさというのは、ホーリィーではなく、ピュアーとか、クリアーというような意味の言葉ですが、この二つの間には大きな差を認めることはできないでしょう。ここでも前節から引き続いての言葉遊びがあります。

 

27節 あなたは、悩む民をこそ救われますが、高ぶる目は低くされます。

 悩む者というのは、苦しむ者のことであり、弱い者のことです。神様はその様な者の見方であることをここでも語っています。それとは逆に高慢な者には、その高慢さを打ち砕かれるのです。

 

28節 あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照らされます。

 灯というのは、「灯台」のことです。航海を安全に守るために必要な、それゆえに人々にとって希望を与える光です。それゆえに他のところで「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119篇105節)と語られるのです。私たちにとって灯が必要とされるのは、私達の心に「やみ」の存在があるからです。このやみという言葉は、「秘密の場所」という意味もあります。すなわちやみというのは「隠しておきたいもの」、「あらわになっては困るもの」ということでしょう。そして誰もがその様な者を持っているのです。

 

29節 あなたによって私は軍勢に襲いかかり、私の神によって私は城壁を飛び越えます。

 彼は主によって強くされています。それゆえに敵の軍勢に襲いかかることができるのです。この言葉は襲撃するという言葉と走るという言葉が用いられていますので、急襲するということなのでしょう。勢いを示しています。また、城壁を飛び越えるのです。当時の町々は城壁に囲まれていましたから、この城壁を越えなければ、完全に相手に勝利することはできなかったのです。ですからここでの様子は戦いに完全な勝利を収めることができる様を表しているのです。

 

30節 神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。

 こうしてこの部分の一応の結論的なまとめの言葉がここには示されます。彼にとって「主は全て彼に身を避ける者の盾」ということは心からの実感だったのでしょう。

 

 

6 救いと勝利は神から(31~45)

 

31節 まことに、主のほかにだれが神であろうか。私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。

 彼は改めて高らかに宣言するのです。「主のほかにだれが神であろう」と。ここでも彼は主のみ真の神であられることを言葉を変えて同じ内容を伝えることによって強調しています。彼にとっても、私たちにとっても主だけが神様であられるのです。

 

32節 この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。

 ここで言う「力」というのは、まさに様々な力で、「能力、冨、働き、軍勢」というように、この世にあって力あると思われるものをすべて含んでいると言えるでしょう。また、「完全に」と言うのは、「正しく、聖く」と言うような意味を持っていうことばですから、彼自身をしっかりと主の御前に導くことを述べていると言えるでしょう。

 

33節 彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。

 足を牝鹿のようにすると言うことはどの様なことでしょうか。この「ようにし」と訳された言葉は、「なぞらえる」とか、等しくすると言う意味の言葉です。それは細くて長いと言うように直ぐに思ってしまうでしょう。もちろん、外見的には、細くて長いという特色もありますが、ここではむしろ高い山でも力強く上っていく様な強さのことを語っているのだと思います。

 「高いところ」というと、神様を礼拝する場所と考えられていました。ですからここで言う高いところと言うのは、神様の御前、と考えられ、神様を礼拝する場と言えるでしょう。

 

34節 戦いのために私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓をも引けるようにされる。

 彼に対して主は鍛え(教え)、力をつけて下さるのです。青銅の弓というのは、引くのに強い力がいります。的に当てるたまには、ただ引けるというだけではなく、引いた時に姿勢が安定していなければなりません。そうしたことを身につけるにはそれなりの訓練が必要です。かれに神様はその訓練を与えて下さいます。

 

35節 こうしてあなたは、御救いの盾を私に下さいました。あなたの右の手は私をささえ、あなたの謙遜は、私を大きくされます。

 私たちがここで注目させられるのは、「あなたの謙遜は、私を大きくされます」という言葉です。この言葉は「謙遜」の他には「柔和」とか「丁寧」というような意味を持つ言葉です。神様が柔和になって私たちに対してくださるので、私たちは主に近づいていくことができるのでしょう。その一番の典型的な出来事が、イエス様の十字架の出来事であったことは言うまでもありません。「大きくされるという言葉は「増し加える」というような意味です。確かに私たちは主の支えの中で守られ成長していくことができるのです。

 

36節 あなたは私を大またで歩かせます。私のくるぶしはよろけませんでした。

 主が私たちの歩みを確かなものとしてくださることをこのように表現しているのです。「大股で」というのは、「拡げる」とか、「拡張する」というような意味の言葉です。本来もっている力を十分発揮させると言うことなのでしょう。しかもその様な歩みが、「よろけません」というのです。「くるぶし」はもちろん足首の関節のことですから、そこがよろけると言うことは転んでしまうことを意味しています。ですからこの表現は私たちが自分から転んでしまうようなことはないことを教えているのです。

 

37節 私は、敵を追って、これに追いつき、絶ち滅ぼすまでは引き返しませんでした。

 彼は敵を追跡して追いつくと言うことは、その速さと力強さを現しています。しかも、その敵を立ち滅ぼすまで引き返さないというのは、徹底したさばきを物語っているのです。

 

38節 私が彼らを打ち砕いたため、彼らは立つことができず、私の足もとに倒れました。

彼の戦いの勝利の確かさのあかしです。「打ち砕く」というのは「粉砕する」粉々にすることです。決定的な勝利を意味しています。ですから彼らは「立つことができない」のです。この言葉は三つの言葉が用いられています。「~ない」という否定の言葉、そして「立つ」ということば、「できる」と言う言葉です。この「できる」と言う言葉は、「耐える、勝利する」というような意味もあります。ですからそれが否定されているのですから、ただ敗北する姿を現していると言うことです。また次に、足下に倒れるということは、完全な勝利を意味していると言えましょう。

 

39節 あなたは、戦いのために、私に力を帯びさせ、私に立ち向かう者を私のもとにひれ伏させました。

 主は彼に力を与えられる方です。「戦いのために、私に力を帯びさせる」ということは、戦いのために必要な、軍勢、冨、能力、そうした必要なものの全てという意味が込められているのです。それゆえに彼は勝利を収めるのです。私の下にひれ伏させることができるのは勝利者なのです。

 

40節 また、敵が私に背を見せるようにされたので、私は私を憎む者を滅ぼしました。

 「私を憎むもの」という時に、それはへたをすると悪い意味での選民意識に入り込んでしまうのかも知れません。自分は神に選ばれた者、自分は神の特別の器というような思いに至るなら、間違いです。しかしここでは神様に選ばれたものですから敵は神様の敵で滅ぼされる者なのですが、あくまでも神様が中心になっていると言うことでしょう。もちろんこのまま新約時代に適用されてよいということではないと思います。

 

41節 彼らが叫んでも、救う者はなかった。主に叫んでも、答えはなかった。

 神が祈りにこたえて下さるお方であるということは私たちの信じるところであります。この事は主に祈っても答えられないと言うことは、その信仰に問題があるという場合があるということをも意味していると言えましょう。もちろん全ての場合がそうだというのではありません。すぐに祈りが答えられないという場合、祈ったり、願い通りにならないことが主の答という場合があります。ただここでは、「答がない」と言うことが、作者の敵が、主のみ心にかなっていないと言うことを証明していると捕らえているのです。

 

42節 私は、彼らを風の前のちりのように、打ち砕き、道のどろのように除き去った。

 彼はその勝利を決定づけるために敵の一掃をはかっています。彼は敵をちりのようにし、泥のように除き去るのです。ちり、どろともに不必要なものという意味で、あるいは価値のないものというような意味で用いられています。

 

43節 あなたは、民の争いから、私を助け出し、私を国々のかしらに任ぜられました。私の知らなかった民が私に仕えます。

 彼は自分の戦いを「民の争いむとしています。それは「神に仕えることを喜ぶ人々」と「そうでない者たち」との争いとして捕らえているのです。その結果彼は勝利をおさめただけではなく、彼の下に多くの国々が屈伏してその結果として「私の知らなかった民が私に仕える」ということになったのです。こうしてダビデの王国は、後に来る神の御国のひな型になっていきました。

 

44節 彼らは、耳で聞くとすぐ、私の言うことを聞き入れます。外国人らは、私におもねります。

 ここに書かれていることは事実としてその様なことが起こっていると言うこと、そしてそれは彼が得た勝利が圧倒的なものであったということのあかしであります。ただその事についての評価をしているわけではありません。

 

45節 外国人らはしなえて、彼らのとりでから震えて出て来ます。

 ここでは彼の力が圧倒的なものであって、それゆえに敵は戦意を失ってしまっている姿を描いています。

 

 

7 王の感謝(46~50)

 

46節 主は生きておられる。ほむべきかな。わが岩。あがむべきかな。わが救いの神。

 作者は「主は生きておられる」と告白します。それは、神様の導きを信じ、勝利を確信しているからであります。彼にとって主は「岩」のようなお方です。だからこそ「わが救いの神」と言うことが出たのでしょう。「生きておられる」というのは、「いきいきした」とか、「リバイブしている」というような意味で、春先の芽吹きの季節のようにまさに力に満ちている状態と言う事が出来るでしょう。

 

47節 この神は私のために、復讐する方。神は諸国の民を私のもとに従わせてくださる。

 「私のために、復讐する方」というのは、きわめて旧約的な言い方のように思います。ただ「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。」(ローマ人への手紙12章19,20節)という言葉が新約聖書にもありますから、こうした言葉によって理解することが望ましいでしょう。

 

48節 神は、私の敵から私を助け出される方。まことに、あなたは私に立ち向かう者から私を引き上げ、暴虐の者から私を救い出されます。

 彼は改めて神様が救いの神であることを言い表します。ここでは神様の救いについて三つの言葉で書き表してその確かさについて語るのです。最初の「助け出す」というのは、「逃がす、救いだす」というような意味です。「引き上げる」というのは、「起こす、あげる」というような意味です。最後の「救い出す」というのは、「救い出す、取り戻す」という意味で、それぞれがまだ捕まっていないので助ける、転んでしまったり、躓いてしまったので助ける、とらわれたので助けるといような違った場面が想定されているようでもありますが、神様の助けについて強調されているとだけ考えることも出来るでしょう。

 

49節 それゆえ、主よ。私は、国々の中であなたをほめたたえ、あなたの御名を、ほめ歌います。

 この様な神様の救いのわざに対して彼は讃美の言葉を語らなければいられないのです。「ほめたたえ」と言うのは、「感謝する、讃美する、告白する」というような意味の言葉です。また「ほめ歌います」と訳されたのは、「歌う、讃美する、楽器を奏でる」というような意味ですから、あえて言うならば、前者はその信仰的な側面、内面的な側面であり、後者は具体的、実際的な側面と言う事でしょう。すなわち心の中から感謝があふれて、具体的に讃美すると言う事です。

 

50節 主は、王に救いを増し加え、油そそがれた者、ダビデとそのすえに、とこしえに恵みを施されます。

 このしも最後の部分になりましたが、最後にダビデの名前を出して、彼を「油注がれたもの」と呼びます。ダビデがイスラエルの中で特別な王であったことを意味しているでしょう。そしてそのすえから、イエス・キリスト様が誕生するのです。そしてイエス様のゆえに私たちも霊的な意味でイスラエル人であり、イエスを長兄とする交わりの中で、その恵みを施されるものになれるのです。

 

 

 

 

詩篇19篇

 

 

1 自然における神の啓示(1~6)

 

1節 天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。

 この詩篇は神様が私たちにどの様にご自分をお示しになるかを三つの視点から教えています。その第一は、大自然を通してであります。その代表としてあげられているのが「天」であります。この場合の天を、天国と受け止める必要はなく、大宇宙として受け止めればよいでしょう。そこはまさに神様の創造の御業であります。「初めに神は天と地を創造された」(創世記1章1節)ということが思い起こされます。その神様の被造物が、神様の御栄光を現しているのだと言うことです。確かに私たちは天空を仰ぎ見る時に、その美しさ、壮大さ、不思議さに目を奪われます。そしてそこに私たちの思いをはるかに超えたお方の存在を思わさせられるのです。

 大空と訳された言葉も「天」と訳された言葉と意味的には大差ないと思います。「天空、大空、広々とした場所」というような意味の言葉です。「御手のわざ」は手によって造られたものを意味しています。ですからここでも同じ内容のことを別の言葉で繰り返して語ることを通して、神様の創造の素晴らしさを際だたせるというヘブル語というか、イスラエルの文学形式の典型であると言えましょう。

 

2節 昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。

 「昼は昼へ、話を伝え」というのは連続性を意味しています。世代から世代へと言うようなことが語られますが、それがもっと細かい単位で、日々に神様の御業が宣べ伝えられていくことを現していると考えられます。

 「昼」と「夜」それは全く違った特色があります。その違ったものがそれぞれの仕方で神様の栄光を現しているのです。

 「話を伝え」というのは、「言葉がわきでてくる」というようなことですから、特定の人によって伝達されると言うよりも、自然に湧き出してくるとでも言えるように、だれかれなしに伝えられていくというような意味に受け止められます。「知識」と訳された言葉は「技術」というような意味もあります。神様の創造に関わる様々な事柄の幅広い豊かさを含んでいると言えましょう。

 

3節 話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。

 神の創造の素晴らしさは言葉で表すことができるようなものではないでしょう。ですからその素晴らしさを現すのには、言葉で語ることは不可能なのかも知れません。すると何も伝わらないのでしょうか。決してそうではないでしょう。言葉で語るよりも、声に出して語るよりも、その御業の作品自体が豊かに物語るのです。それ自体が「天は神の栄光を」見事に語っているのですし、それを、思慮を持って見るものには豊かに表されていると言えるのです。

 

4節 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。

 「その呼ぶ声」と訳された言葉はヘブル語聖書では「糸」、「測り縄」というような言葉です。それは神様のみ声は全地に及ばないところがないほどに行き届いているという意味で用いられた言葉でありましょう。口語訳、共同訳はともに「響き」と訳しています。

 ここに「太陽」があげられています。それは私たちにとって「太陽」は一番身近な神様の被造物であるということでありましょう。全地をあまねく照らす太陽の存在は、まさしく神様の恵みをよく現している存在でありましょう。同時に、太陽のもたらす日差しのすさまじさは砂漠の側にいた彼らにとっては恐ろしい神の御怒りを表すものでもあったのではないでしょうか。ですからその様な中で「幕屋を設けられた」というのは、幕屋が静まり、休息する場であるとすれば、著者が見ているのは神の怒りを静める安らぎ、優しさであるとも言えましょう。

 

5節 太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。

 著者は「太陽の中に神の慈しみ」を見ているとすれば、季節が順調に移り変わっていって欲しいという願いを持っているでしょう。日照り続きの干ばつではなく、順調な季節の移り変わりを願うものとしての表現として受け止める事ができるでしょう。

 

6節 その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。

 その熱を「免れるものは何もない」というのはまさに神様の恵みとさばきの両面を持つ熱を意識しているのでありましょう。だからこそ、日々の太陽の運びが順調にいくことを願い、そこに神の優しさを見いだし、栄光を帰して神様に従おうとする作者の願いを見ることができるように思います。

 

 

2 律法における神の啓示(7~11)

 

7節 主のみ教えは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。

 ここからは御言葉を通して主がご自分を啓示されたことについて示しています。まず御言葉の性質と働きについてです。「完全」と「確か」という二つの言葉で、まず御言葉の性質を表しています。「完全で」というのは、「完璧な」とか「欠点のない」というような意味で用いられる言葉です。「正しく」とか「公平に」という意味もあるようです。また「確か」という語はほかに「信じる」、「信頼する」というような意味ですから、「信頼できる」という意味で「確かである」ということでしょう。御言葉は「欠点のない信頼に足るものです」と語られているのです。

 また御言葉の働きですが、「たましいを生き返らせ」、「わきまえのないものを賢くする」という二つの面があげられています。人間のいのちである「たましい」、ここでは神様によって吹き込まれた「息」という言葉が用いられています。そしてそのいのちが「帰る」のですから「生き返る」と言うことになります。まさに「再生」ということです。「わきまえのないもの」というのは、「単純なもの」と言う意味に用いられます。人世の中でいろいろな面を考慮しないということでしょう。そういうものを「賢くする」というのは、まさに「知恵深いもの」に変えることが出来るのです。聖書に示された言葉を読んでいく時に、私たちは様々な知恵をいただくことができるのです。

 

8節 主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。

 この節で示された御言葉の性質は「正しい」ということと、「きよい」ということです。この「正しい」という言葉は「義」をさすのに用いられる言葉ですから、神様ご自身の御性質そのものが御言葉に表れていると言うことでしょう。「きよさ」と訳された言葉は「バル」という言葉です。アラム語のようです。「バル・コクバ」の乱というのがありましたがその場合の「バル」は「息子」という意味で用いられています。ただそれでは意味が通じません。その意味を探るのに役立ったのは口語訳で、「主の戒めはまじりなくて」ということです。「混じりけがない」ということは「純粋である」ということで、「子供の心の中にある純粋さ」ということと関わって、このような言葉が用いられているのだろうと思います。「戒め」と「仰せ」というのは、前者が「教え、教訓」というような意味の言葉で、後者は「命令」というような意味を持っています。

 その働きは「人の心を喜ばせる」ことです。「喜び」というのは主のエルサレム入城に際して「喜び、喜べ、シオンの娘よ」と語られている御言葉が頭に浮かびます。次に「人の目を明るくする」ということです。共同訳は「光を与える」と訳しています。生まれつきの盲人を癒されたイエス様の姿を思い浮かべることができますが、私たちは確かに主の御前においては盲人そのものでしょう。しかしその様なものも、主の導きの中で喜びと感謝をもって生きていくことができるのも、御言葉によって光を与えられるからです。

 

9節 主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。

 ここでは御言葉そのものはやや後ろに退いて、信仰の道と、主ご自身の御性質について触れています。ただ、その事と御言葉は密接に結びついていますので、別のこととして受け止めることは出来ないでしょう。

 「主への恐れ」は私たちの信仰の基本的な姿勢であります。主に対する敬虔な思い、恐れかしこむ姿勢であります。「神はいない」という態度からは、謙遜は生まれません。神様に対して「恐れる」気持ちがあって、人は初めて人たるのではないでしょうか。

 そうしたものは「とこしえまでも変わらない」のです。この変わらないと訳された言葉は、「立っている」と言うのが基本にある意味ですから、揺るぎなく立っているということだと言えましょう。

 

10節 それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。

 作者は御言葉を自分たちの生活の中で目にし、用いるものに例えます。誰もが好むのは金です。そして純金の美しさは誰もが心ひかれるものでしょう。ここで「好ましい」と訳された言葉は、「欲しがる、切望する、楽しむ」というような意味の言葉です。確かに現代でも、私たちもまた金に魅力を感じるのではないでしょうか。

 もう一つのたとえは、蜜蜂の与えてくれる蜂蜜の甘さです。当時はまだ砂糖のようなものはありませんから、甘味は大変貴重なものであったでしょう。そうした中で、蜂蜜は高価ではあったでしょうが好ましい、そして現代の私たちが感じるよりよほど甘いと感じる甘味であったに違いありません。今テレビなどでは時折、養蜂家の人たちが作っている蜜蜂の巣を撮します。そこには蜜蜂の蜜がたっぷりとついていて、絞りたての蜜を味わっている姿を写しますが、蜜蜂の巣を見つけた人々はそれを喜んでなめたりしたことでしょう。その蜜よりも甘いというのです。御言葉が、私たちの真の慰めになるのだと思います。

 

11節 また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。

 作者は御言葉の実際的な効用とでも言えるものに言及して、「戒めを受ける」と語ります。後の時代にパウロは「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(テモテへの手紙第ニ3章16節)と語りますが、ここで語っていることも、同様なことと思います。

 そしてその戒めを守る時の祝福の大きさについても語っています。「報い」と訳された言葉は「結果」という意味です。その結果、大きいものが与えられると言うことで、報いという意味になるのでしょう。

 戒めを守れば報いが与えられると言うことは、行いによる救いではないかという疑問が起こってくるでしょう。ただここでは救いについて語られているのではないという面があります。また御言葉を守ることは大変重要なことであることは疑いえません。信仰の強調はあくまで救いに関してのことであり、信条を守ることを強調することとは矛盾するものではないのです。

 

 

3 人間の良心への神の啓示(12~14)

 

12節 だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。

 彼はここから自分の内面を見つめて、そこに神様の御言葉を当てはめようとしていきます。「数々のあやまち」はここだけで用いられている言葉です。「悟る」という言葉は自分を見つめた時に分る、「理解する」というような意味ですから、悟るという訳が一番良いと思います。共同訳聖書は「知らずに犯したあやまち」と訳しています。

 罪が明らかにされている場合はほとんどないのかも知れません。隠されているがゆえに場合によっては「安心」し、また場合によっては「怯えて」います。しかしいずれであっても罪が赦されなければ、神様の裁きを逃れることはできないでしょう。罪は「赦される」必要があります。そこで作者は「お赦し下さい」と祈るのです。この赦すという言葉は「きれいにする、取り除かれる、無罪にする」というような意味の言葉です。

 

13節 あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。

 「傲慢」というのは、「恐れることを知らない」と言うことでしょう。神様を認めようとしない生き方です。作者は神様を知って恐れています。それで神様がいないかのように振る舞うことのない様に自分を戒めているのです。「守ってください」と訳された言葉は「抑える」という意味を基本にもった言葉ですから、「抑制してください」と言うことなのです。「支配しませんように」というのも繰り返しの言い回しと考えてよいでしょう。

 「全き者となる」というのは、「完成する」という意味です。誰もが信仰者として十分成長し、完成を目指して歩んでいます。この事については、パウロは「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。」(ピリピ人への手紙3章12節)と語っています。また別のところでは、「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」(エペソ人への手紙4章13節)とも語っています。すなわち未完成ではあるが大人として完成していくことが目標なのです。

 

14節 私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。

 「受け入れられますように」という言葉は、「喜び、恵み、好意、願い」という意味を持った言葉ですから、主によってそれが好意を示して頂けるものになると言うことで、受け入れられると言うことになります。「御前に」というのは、以前にも示したかも知れません。「御顔に」ということであり、したがって、まさに主の見ているところと言うことになります。主の鋭い観察力によってもなお受け入れられる、好意を得られると言うことは難しいことだと思います。しかし彼は主の赦しを見ているのです。主を「あがない主」と呼ぶことでその事を表していると言えましょう。

 

 

 

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